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越王・勾践 2008年08月21日(木)更新
【和:えつおう・こうせん】 |
【中:Yue wang Gou jian】 |
春秋戦国|歴史人物>越王・勾践
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(?~前465年)
春秋五覇の一人に数えられる。呉と越は隣国だつたが仲が悪かった。というよりも、隣国同士だからこそ仲が悪い、というのがこの時代の常識だつた。
呉と越は以前から小競り合いはあつたが、決定的な対立関係になるのは、越の允常が死に、勾践が後を継いだ喪中に、その混乱につけこんで闔閭率いる呉が攻めてきたことで生じた。だが、攻めた呉軍は大敗し、闔閭は戦いで受けた傷が原因で亡くなり、息子の夫差が復讐を誓う。
呉が復讐の機会をうかがつていることを知っていた越の勾践は先に仕掛けることにし、呉に攻め入ろうとするが、返り討ちにあい、今度は越が大敗。会稽山に逃げた勾践は恥をしのんで許しを請う。こうして越は滅亡を免れ、勾践は表向きは呉に恭順した。
しかし、彼もまた復讐心に燃えていた。復讐することを「会稽の恥を雪ぐ」というのは、この故事に出来する。さらに勾践は恨みを忘れまいとして、とても苦い動物の肝を干したものをつるし、それを食事のたびに嘗めることにした。敵である呉の夫差は父の恨みを忘れまいと、薪の上で寝起きしていたわけで、「目的を遂げるために自らに厳しい試練を課して、長い間苦労や努力をすること」を、「臥薪嘗胆」というのである。このように、呉と越の対立は多くの故事を生んだ。そのほかで有名なものに「呉越同舟」がある。呉と越の人がたまたま同じ舟に乗り合わせたときに嵐がやってきて、互いに協力して助け合ったという故事から、敵同士が一時的に体戦して協力しあうことをいうが、いまでは単に「仲の悪い者同士、あるいは敵同士が同じ場所に居合わせること」をいう場合が多い。
呉と越が戦わざるをえなかったのは、単に両方の王の個人的な恨みだけではない。勝ったほうが、長江南部の覇者となり、北方に進出する権利を得るからだつた。両者の戦いは、最初に越が勝ち、次に呉が勝ち、最終的に勝利したのは、越だった。越王・勾践は呉を倒すと北に進軍し、周王室から正式な覇者として認められた。こうして勾践は慢心していき、側近である重臣のいうことにも耳を貸さなくなる。これにあきれ、国を去った者もいれば、讒言によって自害させられた者も出た。こうして、勾践の周囲から能力のある者がいなくなり、越の国力も衰えていった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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