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蘇秦 2008年08月22日(金)更新
(?~前317年頃)
中国戦国時代の遊説家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を説いて合従を成立させたと言われる。戦国時代半ば、秦は政治改革・行政改革に成功し、かつてない強大な国家となつていた。
父・孝公と商鞅の敷いた路線を継承した恵文王は、前三三一年から魏に攻め入り、前三三〇には魏の領土の黄河が北に曲がるところの西側、いわゆる河西を取った。内政面では、前三二八年に相国(いまでいう総理大臣)を置き、また、前三二四年に秦の君主としては初めて「王」を名乗った。
前三一八年、楚、韓、越、魏、燕、斉の大国が連合して、秦に挑み、引き分けた。この六国連合を合従策といい、それを唱えたのが、蘇秦という縦構家のひとりである。この時代、さまざまな外交策を持って諸国をまわる縦横家という職業があつたのである。彼らは、もちろん思想を持っていたのだが、確固たる信念を説いたのではなく、その場その場でどこを味方にすればよいかという現実的対応策を説いた。したがつて、A国で断られればB国に行くという、節操のない部分があり、また各国の王たちにも信念がなく、その場しのぎの解決策を求めたのである。
蘇秦は、生まれたのは東周の洛陽で、斉で学んだ後、縦横家になった。彼の唱えた合従論は、当時最大の勢力をもつていた秦に対し他の六国が共闘してあたるというもので、これによって、戦乱の世を治めることができるとしていた。自分だけでは秦に対抗できず、いずれ征服されてしまうことが予想できた弱小国にとつては、成功すればこれほどありがたい話はなかった。まず、燕の文公がこの策に乗った。つづいて、趙、韓、魏、斉、楚も説得に応じ、趙の粛侯を盟主とする大国合従が成立した。蘇秦は大国の大臣を兼務するという、大出世を果たしたという。だが、こんにち、この蘇秦の「業績」についてはかなり疑間視され、彼の存在そのものも疑われている。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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