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長坂之戦  2008年09月06日(土)更新

長坂之戦
【和:ながさかのせん
【中:Chang han zhi zhan
秦・漢・三国|>長坂之戦

建安十三年(二〇八)七月、曹操軍が根拠地の鄴(河北省臨鄴県の西南)を出発、荊州進撃を開始したころ、荊州の支配者劉表の身辺では、後継の座をめぐってお家騒動がおこっていた。劉表が後妻の蔡氏の言いなりになり、長男の劉琦をさしおいて、蔡氏の姪と結婚した下の息子の劉琮を後継者にしようとしたのである。
このとき、ボイコツトされた劉琦はかねて高く評価していた諸葛亮に、身のよりかたを相談した。諸葛亮は関わり合いになるまいとしたが、劉琦は、宴会にことよせて諸葛亮を自らの屋敷の高殿に招き、隙を見て梯子をとりはずさせ、こう言った。「ここは上は天にとどかず、下は地面につかない場所です。言葉はあなたの口から出て、私の耳に入るだけです。何か言っていただけないでしょうか」。やむなく諸葛亮はアドバイスした。「あなたは(春秋時代の晋の太子)申生が国内にとどまったために危険にさらされ、(同じく晋の公子)重耳(のちの文公)が国外に出たために安全だったのをご存じではありませんか」。身をはずせとの暗示である。この忠告をうけ、劉琦は、たまたま江夏(湖北省武漢市を中心とする地域)に駐屯していた黄祖が、孫権に敗北して殺されたため、その後任の太守として、州都の襄陽を離れ、江夏に赴任したのだった。諸葛亮を信頼するこの劉琦の存在が、その後の荊州情勢の一つのカギとなるのである。
それはさておき、建安十三年八月、お家騒動の渦中で劉琦が降り、弟の劉琮が後継の座についたとたん、曹操軍南下の情報のショックもあったのか、劉表は急死してしまう。劉表の遺臣たちは襄陽の城中で善後策を検討したが、若い劉琮ではとうてい曹操軍に立ち向かえないとの結論に達し、さっそく曹操のもとに全面降伏を申し出る使者が派遣された。襄陽の北、日と鼻の先にある樊に駐屯しながら、劉備には、 いっさいこの経緯は知らされなかった。のみならず、彼は曹操軍がまぢかに追っていることさえ知らなかったのである。劉琮サイドですべての手配りが終ってから、ようやく事 後承諾を求める使者が劉備のもとにやって来た。劉備にとって、まさしく青天の霹靂であった。
曹操と劉備は、いまや文字どおり不倶戴天の仇同士である。のんべんだらりと全面降伏などと、世迷い言をいっている場合ではない。急遽、軍勢をとりまとめ、劉備は樊から南へ向け撤退を開始した。途中、襄陽を通過したさい、諸葛亮は劉琮を攻撃して荊州の支配権を奪取すべきだと進言した。しかし、劉表からうけた恩義を重んじる劉備は、「私にはしのびない」と受け入れなかった。代わりに劉琮との会見を求めたが、疚しいところのある劉琮は城内に閉じこもって出て来ない。やむなく劉備は劉表の墓に詣で、涙を流して別れを告げ、襄陽を立ち去ったのだった。したたかな反面、ときとして異様なほど義理がたい劉備の側面が、ここにはっきりと出ている。
曹操の矛先をかわすべく南下を続ける劉備軍には、劉琮に愛想を尽かした臣下や、曹操軍の進攻を恐れる襄陽付近の住民が、続々と加わった。当陽(湖北省当陽県の東)にたどりついたころには、その数は十万人以上に膨れあがり、家財道具を積んだ荷車が数千台も連なるというありさまで、 一日にわずか十里(約四キロメートル)しか進めない。 にっちもさっちも行かなくなり、とうとう当陽で軍勢を二手に分け、関羽に兵士の分乗した数百艘の船団を指揮させ、水路をとって先行させた。落ち合う先は江陵(湖北省沙市市)である。それにしても、こう多くの非戦聞員を連れてノロノロ移動していては、曹操軍に追いつかれた場合、目も当てられない。非戦闘員にかまわず、主力部隊だけスピードアップして撤退すべきだとの意見に対して、劉備はまたしても義理がたさを発揮し、「そもそも大事をなしとげるためには、必ず人間を基本にしなければならない。いま人々が私に身を寄せてくれているのだ。それを見捨てて去るには忍びない」と、断固として拒絶した。合理主義者で効率のよさを最優先する曹操との差を、きわだたせるためもあってか、劉備はつねに、こうして非合理的な信義や恩愛を正面きって打ち出そうとするのだ。
しかし突の定、劉備軍がもたもたしている隙に、軍需物資が豊富な江陵を劉備に占拠されることを恐れた曹操は、よりすぐりの精鋭五千の騎兵部隊を率いて猛追撃をかけて来た。曹操の精筑部隊は、 一昼一夜に三百里の行程(劉備軍の三十倍のスピードだ!)を駆け抜け、あっというまに当陽の長坂橋の付近で劉備軍に追いついた。仰天した劉備は妻子を見捨て、諸葛亮・張飛・赴雲ら数十騎とともに、必死になって逃走を開始する。
このとき、ニ十騎を率い後詰めを引き受けた張飛は、川を盾にして橋を切り落とし、矛を小わきに目をいからせて、「身はこれ張益徳なり。来たりて共に死を決すべし」と、雷鳴のような声で呼ばわり、曹操の大軍を威嚇した。その凄ましい勢いにのまれて、誰もあえて近づこうとせず、その隙に劉備主従は逃げおおせたのだった。
ホッと一息ついたところで、気がつくと趙雲の姿が見えない。「趙雲は逃げてしまったのでしょう」と、ある者がいった。劉備はその者を殴りつけ、「子龍は私を棄てて逃げるような男ではない」と、言いきるのであった。この言葉を裏書きするかのように、ほどなく趙雲が追いついて来る。その懐には、劉備の長男劉禅が抱えられていた。なんと趙雲は、曹操の大軍を向こうにまわして、ひとり奮戦し、劉備が置き去りにした幼な子の劉禅、およびその母の甘夫人を救い出して来たのだ。
張飛と趙雲の超人的な奮戦により、劉備は絶体絶命のピンチを逃れることができた。ただ、この長坂の戦いの時点で、劉備と諸葛亮の出会いのきっかけを作った徐庶は、母が曹操の捕虜になったために、劉備のもとを辞し曹操に降伏した。別れにあたり、徐庶は劉備に告げた。「もともと将年軍とともに王業・覇業をおこないたいと思ったのは、この一寸四方の場所(心臓)においてでした。いま老母を失い、わが一寸四方は混乱しております。もはやお役にたつことはできなくなりましたので、お別れさせてください」。劉備はこうして徐庶を失ったのみならず、彼を果って当陽まで付いて来た、おびただしい人数のほとんどを曹操に奪われてしまったのだった。
辛うじて乱戦のなかを逃げきった劉備主従は、やがて別働隊の船団を率いる関羽と合流、河水をわたって漢津に到達した。そこへ、先に江夏太守となって赴任していた劉表の長男劉琦が、 一万の軍勢を卒い駆けつけて来る。これにより態勢を立て直した劉備は、東のかた、呉との国境地常にある劉琦の駐屯地夏口(湖北省武漢市)へと向かった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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