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劉備入蜀  2008年09月08日(月)更新

劉備入蜀
【和:りゅうびにゅうしょく
【中:Liu bei ru shu
秦・漢・三国|>劉備入蜀

劉備が蜀攻略の端緒をつかんだのは、そもそも曹操の動きと深く関連している。建安十六年三月、曹操はブレーンの鐘繇および猛将夏侯淵に軍勢を率いさせ、漢中五斗米道王国の主、張魯の討伐に向かわせた。この出兵は予期せぬ波紋を呼ぶ。漢中への通り道にあたる関中(洛陽の西にある函谷関以西を指す)の軍閥の諸将が、自分たちもついでに滅ぼされるのではないかと疑心暗鬼になり、いっせいに反乱に踏み切ったのだ。その先頭に立ったのが「西涼の猛将」馬超(一七六~二二二)である。
馬超の父馬騰は、もともと後漢末に西涼からおこった地方軍閥だった。彼は転変を繰り返したすえ、北中国の前者となり勢いを強めた曹操に迫られ、建安十三年(ニ〇八)、後漢の献帝の警備隊長という名目で入朝させられた。だが、馬騰が根拠地から引き離されたあとも、剛勇をもって鳴る息子の馬超は、曹操の招聘を拒否し、依然として父譲りの半独立的な軍団を卒いて、関中に駐屯しつづけた。この馬超が父の盟友韓遂と手を組み反旗を翻したのだから、これは脅威であった。曹操はまずもっとも信頼する曹仁を派遣し、馬超の動きを牽制しておいたうえで、建安十六年七月、自ら出撃して潼関(陝西省潼関県の北)で馬超と対戦した。
しかし、馬超の爆発的な武勇に押しまくられ、曹操は苦戦した。馬超は、主力軍を渡河させ、自ら親衛隊を率い後詰めを引き受けていた曹操を急襲、あわやというところまで追いつめさえしたのだ。このとき、矢の雨がよるなか、曹操の親衛隊長許褚は、曹操を船にかつぎこむや、左手で鞍をかざして曹操をかばい、右手で射殺された船頭にかわって船を漕ぐという、獅子奮迅の働きを示した。虎痴と異名をとる許褚のこの活躍がなければ、曹操も一巻の終わりであった。
馬超にキリキリ舞いさせられた曹操は、謀臣賈詡記の立てた分断作戦により、反乱軍のリーダー馬超と韓遂の伸を引き裂くことに成功、二か月後の建安十六年九月、ようやく馬超を敗走させた。賈詡の分断作戦は、曹操と昔馴染みの韓遂をさも親しげに会談させたり、わざと伏せ字だらけの手紙を韓遂に送りつけたりして、馬超の猜疑心を煽るという、なんともえげつないものだった。手練の業師賈詡とに逃げ込む羽日となる。馬超に煮え湯を飲まされた曹操は、父の馬騰をはじめ一族を皆殺しにして、凄惨な報復を加えた。馬超が曹操に対して、生涯消えることのない激しい憎悪を抱いたのは、でつまでもない。
曹操の張魯征伐は目的地漢中に達するまえに、こうして大波乱を巻き起こしたが、いま一人、曹操軍の漢中出撃の情報をえて、よるえあがった人物がいる。蜀の支配者劉璋である。曹操軍が漢中を抑えれば、隣接する蜀が次の標的になるのは、火を見るより明らかだ。愚かな劉璋は狼狽した。
漢王朝の一族だった劉璋の父劉焉は、後漢の霊帝の末年、天下大乱の兆しが顕著になったころ、 いちはやく益州の牧を拝命して華北を離れ、地勢堅回な蜀に拠った。劉焉の時代には、五斗米道の教祖張魯の一族とも親密であり、ことに不老長生の術をマスターし、老いてなお少女の面影をもつ張魯の母は、ひんぱんに劉焉の邸に出入りしていた。
劉焉の死後、あとを継いだ息子の劉璋は、 いたずらに張魯を敵視し、劉焉と縁の深かったその母と弟を殺害したので、仇敵の間柄になった両者は、絶えず小競り合いを繰り返すことになる。こうして隣接する漢中に依拠する張魯を、むざむざ敵にまわしたのをはじめ、判断力のない劉璋は次から次へと失態を重ね、配下にすっかり愛想を尽かされてしまう。
なかでも劉璋迫い落としの急先鋒となったのは、張松と法正(176~220)だった。張松は、赤壁の戦いの直前、曹操がいったん荊州を掌握したころ、劉璋の使者としてその本陣を訪れたことがあった。しかし、曹操は張松を無視しまともに扱わなかった。張松は風采のあがらない小男のくせに、自信家で横柄なところがあり、曹操の癇にさわったのであろう。冷たくあしらわれて気をわるくした張松は、蜀にもどると、曹操は頼みにならず、劉備とこそ手を結ぶべきだと、劉璋に進言する。これを鵜呑みにした劉璋は、張松の親友法正を、赤壁の戦いに勝利し荊州に拠点をもったばかりの劉備のもとに派遣し、ようすをうかがわせた。劉備と会見した法正は、この人物こそ劉璋に代わって蜀の支配者となるによさわしいと直観、以来、張松とともに、劉備を蜀に迎え入れる機会を狙いつづけた。
愚かな支配者劉璋のもとでは、蜀もそして自分たちもいずれ減亡するしかない。誰か乱世の有能なリーダーの傘下に入ることが、残された唯一の道だ。日先のきく張松と法正は曹操と劉備をひそかに天秤にかけた結果、曹操に見切りをつけ、劉備を選んだというわけだ。むろんこの選択に、荊州情勢の変化がからんでいるのは、で,までもない。いずれにせよ、天下三分の計を実現させるため、喉から手が出るほど蜀がほしい劉備にとって、法正とのコンタクトがとれたことは、願ってもない幸運であった。
劉備入蜀の下準備がひそかに進行中の建安十六年、曹操が漢中に向け出兵したとの情報が蜀にとどく。チャンス到来とばかりに、張松は慌てる劉璋を説得した。「曹公は天下無敵であります。張魯を撃破し、その軍需物資によって蜀の地を奪いとろうとしたならば、とても防ぎきれません。劉豫州(劉備)は殿のご一族にあたるうえ(ともに漢主朝の一族であることをいう、曹公の仇敵であり、用兵にも巧みです。彼に張魯を攻撃させれば、張魯は必ず敗北します。張魯が敗北すれば、この蜀は強力となり、たとえ曹公が来攻しても、どうすることもできないでしょう」 単純な劉璋はたちまちその気になり、さっそく法正に四千の軍勢を率いて荊州に向かわせ、劉備の救援を求めさせた。このとき、劉璋政権の重臣のうち、硬骨漢の黄権は「一つの国に二人の君主はいらない」と大反対し、 一徹な王累も、州門に自ら逆さ吊りになりまでして諌めたけれども、張松にいいくるめられた劉璋は貸す耳を持たなかった。
荊州に到着した法正は劉備に対して、蜀の地勢や軍備の現況を詳細に告げたうえ、この機を逃さず蜀を奪取すべきだと、進言した。しかし、例によって劉備は、信義にはずれた行動はしたくないと逡巡をみせる。ここに登場するのが、諸葛亮と並ぶ劉備のブレーン龐統(一七九~二一四)である。龐統は、乱世は正義一筋では乗り切れない、いま蜀を奪取しなければ、けっきょく他人に取られるまでだと、劉備を説得、劉備もついに蜀進撃の決断をくだす。
もともと龐統は「鳳雛」と呼ばれ、「臥龍」諸葛亮と肩を並べる荊州知識人のホープだった。『三国志演義』は、赤壁の戦いのさいにも?統の出番を作り、曹操の軍艦が前後連結されていたのは、龐統の計略によるとしているが、これはむろんフィクションである。
実際に龐統が動きだしたのは、赤壁の戦いの決着がついてからだった。南郡太守として江陵に駐屯した周瑜に仕えた龐統は、周瑜の死後、その柩を送って呉に行く。龐統の名声はつとに鳴り響いていたにもかかわらず、孫権は彼を任用せず、やむなく龐統は荊州に立ちもどり、劉備に身を寄せた。しかし、劉備も龐統を過小評価し、耒陽という小県の県知事代理の職しか与えない。役不足の龐統はサボタージュを敢行したため、あっさり免官になってしまう。まもなく龐統の実力を知る魯粛や諸葛亮がねんごろに口添えしたため、劉備は改めて龐統と会見、すっかり気に入って、諸葛亮とならぶ軍師に取り立てたのだった。
こうした龐統の行動の軌跡には、自らの力を存分に発揮させてくれるリーダーを、慎重に選ぼうとする姿勢が顕著に見られる。しかもそのリーダーは、同時に乱世を乗りきるだけの力量とビジョンの持ち主でなければならない。これは龐統のみならず、蜀の法正や張松にも共通する認識であり、願望でもあった。ここに揺れる江南に生きた当時の知識人の、野望に満ちた生き残り作戦が見てとれよう。
さて、龐統の進言を受け入れた劉備は軍勢を率い、 いよいよ蜀に向かった。このとき軍師として劉備に同行し、蜀進攻作戦を推し進めたらは、ほかならぬ龐統であった。諸葛亮・関羽,張飛・趙雲ら、劉備配下の主要メンバーは、この時点において、荊州の拠点を確保すべく、みな荊州に残留したのである。ちなみに、孫権は劉備が蜀に向かうとすぐ迎えの船をよこし、劉備に嫁いだあの活発な妹の孫夫人を引き取ろうとした。このとき、孫夫人はなんと劉備の長男の劉禅を連れて行こうと図り、張飛と趙雲が力ずくで奪い返すという一幕もあった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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