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蜀攻略戦  2008年09月09日(火)更新

蜀攻略戦
【和:しょくこうりゃくせん
【中:Shu gong lue zhan
秦・漢・三国|>蜀攻略戦

  荊州の珍事をよそに、難なく国境を越え蜀に入った劉備を、無邪気にも劉璋は首都の成都からわざわざ涪(四川省綿陽市)まで出向いて迎え、大宴会を催して歓待しようとした。張松は法正を通じて、宴会の席上、隙を見て劉やを襲撃するよう提案し、龐統も「いま劉璋の身柄を拘束すれば、戦うことなく蜀を平定できます」と勧めた。しかし、劉備は時期尚早を理由に、この提案を拒否した。
何も知らない劉璋は、三か月あまりも宴会を重ねるうち、ますます劉備に対する信頼を高めた。あげくのはてに、ご丁寧にも張魯討伐のためにと、劉備の軍勢を補強し軍備を強化してやる始末。そのおかげで劉備は総勢三万以上に膨れあがった軍勢を率い、涪から北上、蜀の要所の一つである葭萌(四川省広元県の西南)に駐屯することができた。張魯討伐に本腰を入れる気など、さらにない劉備は、ここでひたすら勢力を温存じ人心の収攬に努めたのである。
建安十七年(二一二)十月、葭萌の劉備のもとに、曹操の攻撃をうけた孫権から救援の依頼がとどく。孫権はこの年、根拠地を京口からやや西の秣陵(のちに建業と改称。江蘇省南京市)に移し、同時に、周瑜亡き後の呉軍のホープ呂蒙(一七八~二一九)の進言を受けて、秣陵の南西の濡須口に要塞を築き、曹操の来攻に備えた。濡須口は曹操の江南攻撃の軍事拠点合肥(安徴省合肥市)と対時する、長江の重要な渡河点である。曹操はこの濡須口に攻勢をかけて来たのだ。
ちょうどこのころ、曹操の身辺で不幸な事件がおこっていた。年齢をかさねるにつれ、とみに権力欲を強めた曹操は、名実ともに最高権力者つまり皇帝になることを意識しはじめた。その手始めに魏公の地位につき、九錫(大功のある諸侯に天子が賜る車馬など九つの物)を受けようとしたところ、曹操の最良の謀臣荀彧は断固として反対した。曹操が感情を害したことはいうまでもない。この直後、曹操は荀彧を同道して濡須口に向け進撃を開始した。途中(荀彧は病気を口実に合肥の北方寿春にとどまり、服毒自殺したのだった。
従来、曹操が遠征するときは、荀彧は必ず留守を預かるのが慣例であった。このときにかぎり、曹操は荀彧を同行させており、荀彧は最初から異様な危機感をおぼえたにちがいない。これに追い打ちをかけるように、曹操から贈られた病気見舞いの食物の器をあけてみると、なんと中身はからっぼだった。もうおまえはいらないという、冷酷な宣告である。絶望した荀彧は、もはやこれまでと観念し死を選んだ。天下統一をめざす曹操の名参謀として尽力すること二十有余年、 ついに曹操の欲望の論理についていけなくなった清流派知識人荀彧の悲劇的な最期であった。先の話になるが、荀彧が死んだ翌年の建安十八年、曹操は誰はばかることなく魏公の座につく。
荀彧の悲劇もものかは、曹操は孫権攻撃の手をゆるめなかった。そこで慌てた孫権が葭萌の劉備に救援を求めたわけだ。劉備はいそいで成都の劉璋に手紙を送り、いま孫権を救援しなければ、荊州が曹操の手に落ちる危険があると訴え、 一万の軍勢と軍需物資および食糧を要求した。これに対して、劉璋はしぶしぶ四千の軍勢を与えたのみであり、他の要求にも半分しか応じなかった。のみならず、累を恐れた張松の兄が、劉備に蜀を支配させようとする張松の陰謀を告発、劉璋は即座に張松を処刑するという事件がおこる。こうした劉璋の一連の敵対的態度は、劉備に蜀攻略の絶好の口実を与えた。実は、劉備に、孫権救援を口実に、劉璋を挑発するよう勧めたのは龐統であり、ボンクラな劉璋はまんまとその罠にはまってしまったのだ。
こうして劉備の蜀攻略作戦はいよいよ実行段階に入った。劉備はまず老将黄忠らとともに葭萌から涪に進軍、守備軍を敗走させて涪城を占拠した。翌建安十八年(二一三)には、さらに南西に向かい、綿竹(四川省綿竹県の南東)に攻撃をかけたところ、劉璋の派遣した綿竹守備軍の責任者李厳と費観は、戦わずして降伏する。
これにより、ますます勢いを強めた劉備は、諸将を分遣して属県を平定させる一方、自ら主力軍を率いて南下、蜀の首都の成都をめざす。しかし、成都北東の軍事拠点雒(四川省広漢県)の守りは固く、包囲したまま年を越し、 一年後の建安十九年(二一四)、ようやく陥落させるに至る。雒の守備軍がこれほど頑強に抵抗したのは、老骨に鞭うって戦いぬいた劉璋の部将張任の存在が大きい。硬骨漢の張任は、劉備軍に生け捕りにされ、降伏するよう勧められても、「老臣は二主に仕えるような真似はしない」と頑として節をまげず、 ついに殺害された。劉備も、彼のみごとな老いの一徹には、 つくづく感嘆するばかりだった。こうして雒を攻めあぐんでいるうち、劉備自身もとりかえしのつかない大きな打撃を受けた。雒陥落を目前にして、蜀攻略の最大の功労者龐統が流れ矢にあたり、あえなく戦死してしまったのである。ときに建安十九年、龐統三十六歳。蜀制覇を日前にした無念の死であった。龐統戦死の地は、彼を記念して以後「落鳳坡」と呼ばれる。
龐統の戦死という手痛いダメージを受けながらも、劉備の雒攻撃が最終段階に入ったころ、諸葛亮は、関羽を荊州のおさえとして残し、張飛・趙雲ともども荊州から出陣、長江を溯って蜀に入った。彼らは手分けして、またたくまに長江沿いの白帝城(巴東郡の中心地)、江州(巴郡の中心地。四川省重慶市)、江陽(江陽郡の中心地)を攻め落とし、さらには犍為、巴西をも支配下に収めて、成都に迫った。
荊州から入った劉備軍団の猛将の進撃をうけ、続々と劉璋配下の部将が降伏するなか、高齢の巴郡太守厳顔が示した反骨ぶりは、ひときわ爽やかな印象を与える。張飛の猛攻をうけ生け捕りにされた厳顔は、「わが州には首を斬られる将軍はいるが、降伏する将軍はいない」と、あくまで降伏を拒否、従容と死を待つ姿勢を崩さなかった。
張飛はいたく感動して、厳顔の命を救い、以後、賓客として手厚く待遇したのであった。これは、りっばな人物は素直に敬愛する、乱暴者張飛の意外な側面をあらわすものとして、有名なエピソードである。雒を死守した張任といい、張飛を感激させた厳顔といい、雪崩をうって劉備になびいた劉璋配下の部将にも、ことに老将には、こんな毅然とした人々もいたのだ。
さて、劉備が雒を破り南下して成都に至ったころ、ちょうど諸葛亮らの軍勢も成都に到達、首尾よく合流した両軍は、ともども成都を包囲した。劉備の蜀攻略は全体的にみれば、劉備自身が時間をかけて、蜀の中心部を苦戦しながら制圧し、それがほぼ成功しかけた時点で、ころやよしと、荊州に残留していた劉備軍国の主力が蜀に出撃し、いっきょに周辺部を制圧、劉備軍と合流して成都に総攻撃をかけるという、きわめて巧妙な戦術にのっとったものであった。この構図をかいたのは、おそらく諸葛亮にちがいない。
包囲されること数十日、建安十九年五月、成都城内になお三万の精鋭兵、 一年分の食糧を有し、士気もはなはださかんであったにもかかわらず、劉備の使者簡雍の説得に応じて、劉璋は降伏した。あまりの不甲斐なさに、臣下はみな涙を流して悔しがった。劉璋は、勇名轟くかの西涼の猛将馬超が劉備の傘下に入り、成都包囲陣に加わったことに衝撃をうけ、降伏の決意を固めたともいう。
馬超は、曹操に関中を追われ、漢中五半米道王国の主である張魯に身を寄せたものの、張魯はとても馬超を使いこなせるような器ではない。いらだちをつのらせていたところに、劉備が成都を包囲したとの情報を耳にし、馬超はさっそく手紙を送って降伏を申し出た。劉備は喜んでこれを受け入れたので、ただちに手勢を率いて成都に馳せ参じたのだった。曹操と仇敵の間柄になった馬超の行く先は、やはり曹操の仇敵である劉備のもとしかなかったのだ。これ以後、馬超は劉備軍団の一翼を担う重要な存在となる。 
ただ、依然として荊州に駐屯していた関羽は、勇名轟く馬超が劉備に降伏したことを知ると、内心おだやかでなく、さっそく諸葛亮に手紙を送り、馬超は誰に匹敵する人物かとたずねた。関羽が負けず嫌いなことをよく知る諸葛亮は、「なみはずれた傑物であり、益徳(張飛)と先を争う人物だが、やはり髯どのの比類ない傑出ぶりには、とうていおよばない」と送信をおくり、さりげなく関羽をもちあげた。関羽はりっぱな髯の持ち主だったので、「髯どの」と呼んだのである。案の定、関羽は無邪気に大喜びして、この手紙を人にみせびらかしたという。あちらをもちあげ、こちらをなだめ、名軍師諸葛亮ならではの鮮やかな手綱さばきではある。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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