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楊貴妃  2008年10月12日(日)更新

楊貴妃
【和:ようきひ
【中:Yang gui fei
隋・唐・五代|歴史人物>楊貴妃

 いかな楊貴妃といえども、正史に録される伝は簡略をきわめる。生年すらしるさないが、有名な馬嵬で の賜死の年が天宝十五載(七五六)で、三十八歳であったというから、逆算すれば、開元七年(七一九)の生まれとなる。なお、玄宗は天宝三年に年を載と呼ぶように改め、その習慣は、天宝十五載の退位につづく粛宗の至徳二載(七五七)までつづいた。幼名は玉環という。父は楊玄琰。ただし、早くに亡くなったので、叔父の楊玄檄のもとで育てられた。
その後どういう経緯であったかは詳かにしないが、開元二十二年(七三四)に、玄宗の第十八子で寿王に封ぜられていた瑁の妃として入宮した。
そのころ、玄宗はあまたある後宮の妃妾のなかでも、とくに武恵妃を寵愛していた。武恵妃とは、れいの武則天皇帝、すなわちいわゆる則天武后の従兄の子にあたる武攸止の女にあたる。玄宗がクーデターで中宗の皇后韋后とそのむすめ安楽公主を血祭りにあげた景龍四年(唐隆元年。景雲元年にもあたる七一〇年)、韋后の一族と武氏一族は失脚し、女たちは幽閉されたが、武攸止の幼いむすめも宮婢の地位に落とされた。それが十四歳のときに召されて玄宗の龍床に待り、やがて帝の寵愛を一身に鍾めるようになって、恵妃の位を賜った。
ここで、宮中の妃嬪の制度についてかんたんに述べておこう。時代によって異同があるが、唐代は隋代のそれを継承した。すなわち、皇后が最高位であるこというまでもないが、その下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃それぞれ一人(以上を夫人と称し、正一品に叙せられる)、昭儀。昭容・昭媛・修儀・修容・修媛 ・充儀・充容 ・充媛おのおの一人(以上、九嬪。正ニ品)、婕妤九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人、といったぐあいにつづく。玄宗の時代に改称が行われ、貴妃・恵妃・麗妃・華妃(恵妃以下は三夫人)それぞれ一人、その下は淑儀・徳儀・賢儀・順儀・婉儀・芳儀の各一人、美人四人、才人七人とつづく。
武攸止のむすめに賜った恵妃という位階については、以上によっておのずから明らかであろう。
さて、玄宗は太子時代から多くの妃妾をかかえていたが、即位とともに皇后に立てられた王后は、子が生まれなかったこともあって、開元十二年(七二四)に廃后せられ庶人(平民)に陥されていた。武攸止のむすめが恵妃を賜ったのは、王后が廃せられたあとのことであるが、玄宗は武恵妃を皇后に立てようと思っていた。しかし、武則天の一族ということで朝臣の反対にあって果たせず、それでも宮中での序列などは、すべて皇后に準じて遇せられた。
この武恵妃は四男三女を産んだが、そのうちの一人が寿王瑁である。楊玉環ことのちの楊貴妃は、この寿王の妃だったのである。皇子妃となったときの楊玉環は、数え年で十六歳であった。
するうちに、武恵妃が開元二十四年(七三六)に死亡し、籠妃を失った玄宗は、その後宮に意にかなうものもないままに索莫たる思いにかられていた。そんなとき、楊玉環の「姿質豊艶」(『旧唐書』「后妃伝」上)なることを奏したものがいた。だが、知っての通り楊玉環は、玄宗にとっては、俗にいえば息子の嫁である。そこで、皇子妃のまま入宮させるわけにいかないので、いったん女冠とすることとした。女冠とは、女の道士のことで、仏教における尼と同様、不犯の身となる。
過ぐる日、才人として太宗の寵を受けたことのある武則天は、太宗在世中に、太子時代の高宗と通じたことがある。太宗崩じてのち、太宗に仕えた多くの女たちとともに尼寺に入って世捨てびととなったが、そこに微行してきた即位後の高宗と通じ、高宗の後宮に入った。つまり、武則天は父子二代にわたって通じたわけで、この点も、武別天が非難される理由の一つとなっている。
とはいえ、高宗が武則天を後宮に入れ、やがては皇后に冊立することができたのも、いったんは出家して尼になった女、という一種の免罪符があったからで、さらに高宗は、太子時代に父帝より賜ったのだ、といった旨の弁解の詔勅をも用意したのだった。
これにくらべると、玄宗は息子の嫁をとりあげたのであって、現皇帝であり、かつ父であるという立場からすると、だれからも文句をいわれる筋合いではない。それでもなお、いったんは女道士にして息子との縁を切らせるという形にしなければならなかったのである。
尼といい、女道士といい、世俗から離れ一生不犯の身となることが、いわば再縁のためのかくれみのであるというのは、いかにも滑稽であり、あまりにも見えすいたお芝居であることまぬがれない。しかし、当時の宮廷にあっては、この種のことは、けっこうありふれていたのである。
たとえば、武則天の生んだ太平公主は、まだ幼いころ、外祖母の楊氏つまり武則天の母が死んだあとで、その生前の慈愛にこたえ追善供養をするために、女冠にさせられた。とはいえ、きらびやかな道士服をまとい、美しい道冠を頭にいただいた姿をしているだけで、道観(道教の寺)に入るわけでもなし、宮中においてたのしく遊びくらしているだけだった。のちに、吐蕃国王が太平公主を所望してきたとき、武則天は、太平公主がすでに女冠であって一生不犯の身であることを口実に、その要求を拒否し、いそぎ道観をつくって、形式的にではあるが、そこに住まわせ辻棲を合わせたことがある。
かつて、太宗のころ、文成公主が吐蕃国王ソンツェンガンポのもとに嫁いで、唐と吐藩との和平にひと役買ったが、吐蕃はそれに味をしめていた。だから武則天が、太平公主が女冠であることを口実に拒絶したのはもっともであったが、かといって一生不犯の女冠たる太平公主を、吐蕃とのほとぼりがさめたころ、薛紹に降嫁させ、薛紹の死後は武承嗣と、さらには武攸曁と結婚させたのは、なかなかの心臓であるといわなければならない。
いずれにしても、宮廷内の公主や妃嬪などが女冠になるのは、多くの場合、なんらかのエクスキューズのためだったのであり、寿王瑁の妃であった楊玉環が女冠となって大真と号したのも、息子の嫁に目をつけた玄宗の側の苦肉の策であったこと疑いない。
ちなみに、唐代の歴史をしるした劉昫の『旧唐書』に見える楊貴妃の伝には、寿王妃であったのを玄宗がとりあげたとは書いていない。しかし、北宋初めの欧陽修らが撰した『新唐書』には、そのことを明記する。また、同じく北宋初めの楽史による『楊太真外伝』もほっきりしるしている。思うに、 唐滅亡後ほどない後晋のひと劉昫には、玄宗のいわば不道徳な一面をかくそうとする意図があったのであろう。
ともあれ、武恵妃なきあとの寂寞を託っていた玄宗は、寿王妃の楊玉環の美貌に目をつけ、これを女冠としていったん太真宮なる道観に住まわせ、寿王には別に韋昭君のむすめをあてがうなどした上で玉環を入宮せじめた。
さきの楽史の『楊太真外伝』は、楊玉環が女冠となった年を開元二十八年(七四〇)、玄宗の後官に入った年を天宝四載(七四五)としている。しかし、これでは、女冠としての楊貴妃は、約五年ものあいだ道観ぐらしをしたことになる。すでに五十歳なかばを過ぎていた玄宗が、そんなに悠長に待っていたはずはない。女冠としての道観ぐらしは、どんなに長くともせいぜい一年と見てよいであろう。天宝四載とは、あとで述べるように、貴妃に冊立された年であると思われる。ちなみに、楊玉環が女冠となった開元二十八年、玄宗は五十六歳、楊玉環は二十二歳であった。出所:中国の群像-楊貴妃安禄山

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