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則天武后除罪簡 2009年1月31日更新
【和:そくてんぶこうじょざいかん】 |
【中:Ze tian wu hou chu zui jian】 |
隋・唐・五代|金銀・玉器|>則天武后除罪簡 |
一九八二年 河南省登封市嵩山峻極峰北側出土
金、鍛造
長36.3、幅7.8、(重量)223.5グラム
唐 久視元年(七〇〇)銘
河南・河南博物院
久視元年(七〇〇)七月七日、則天武后(在位六九〇~七〇五年)が、我が身の罪を祓うため、臣下に命じて、崇山の山門ヘ投じさせた金製の願文である。 一九八二年に、付近の若者が、高山峻極峰の北側の岩の下で、偶然、発見したと伝えられる。
崇山は、河南省鄭州市の南面に位置し、古来、中国五岳の一つに数えられ、皇帝による大地を祀る儀式(封禅)も執り行われるなど、貴賎の尊崇を集めた名山である。則天武后は、当時、皇帝の位に就くこと10年に及び、すでに絶頂を極めていたが、老齢の身を振り返り、さらなる安寧幸福を祈って、こうした願文の作成を思い立ったのであろうか。
厚さ一ミリ程の金板に、三行にわたって六三字が刻出される。文字は、それぞれの筆画の周囲が鏨打ちによって表わされたもので、中には、「圀」(国)、「曌」(照)、「匚+出」(月)という五種の則天文字も使用されている。このうち、則天武后の名を示す「曌」の文字が使われているのは、史書を除いた実物資料では、これまでのところ、この金簡が唯一の遺例といわれる。則天武后の実像を探る上で、見逃すことのできない貴重な資料といえよう。
ちなみに、則大文字は、載初元年(六八九)正月に公布され、全部で一七文字以上あったと考えられるが、則天武后の崩御後、ただちに廃止されたため、今日、その全貌はなお明らかでない。出所:唐の女帝・則天武后とその時代展1998
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