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ザッキン美術館(フランス) 2009年7月13日更新
【和:ザッキンびじゅつかん】 |
【英:Musee Zadkine】 |
研究機関|>ザッキン美術館(フランス) |
モンパルナスのアサス通り百番地にザッキン美術館がある。《100BIS》と書かれた細い路地を入ると右側に白い壁があり、簡素な入門がある。ここは一九二八年からザッキン夫妻の住居であり、アトリエであったところである。 一九八二年にパリ市立ザッキン美術館として開館した。
オシップ・ザッキンは一八九〇年七月十四日にロシアのスモレンスクの町に生まれた。十五歳のとき、英国に留学、そして大英博物館でパンテオンの大理石や、中国の彫刻にも強い刺激を受けた。十九歳でバリに出て国立美術学校に入る。 一九一七年のロシア革命のあと、逸早く渡仏し、翌年にはパリで友人のモジリアニ、キスリングと二人展を開いた。また藤田嗣治と親交を結び、 一九二四年には日本で作品を発表するなど、ヨーロッパだけでなく世界各地で展覧会を開催し、積極的な美術活動を行った。第二次世界大戦中は戦火を避けてニューヨークのグリニッチ・ビレッジで制作を続けた。彼の人生は、制作をする場所を求めての放浪の旅のようでもあった。
代表作にロッテルダムの「破壊のための記念碑」(一九五四)がある。生まれ故郷スモレンスクには革命の後、帰ることもなく、 一九六七年十一月パリで急死した。
このザッキンのアトリエはザッキン自身が″アサスのお楽しみの場所″と呼んだように、モンパルナスの喧噪の中で、ここだけが忘れられたように木々に囲まれた静かな空間である。ザッキンは画家であった夫人ヴァランテーヌ・プラウスと二人だけで独特の世界を創っていた。一九八一年の夫人の死後、三百点近い作品が家、土地と共にパリ市に遺贈された。
入口を入るとすぐに木々に囲まれた庭に出る。そこには、十七体ほどの彫刻が置かれてあった。音楽隊、歌をうたう人、母と子をテーマとしたブロンズ像や石像がそれぞれに美しい空間を創っている。
庭の右側に大きなアトリエが一つ、左に住居とアトリエを兼ねた″く”の字形の三階建ての建物がある。二階建ての建物の入口が中央にあり、そこが美術館の入口にもなっている。まずザッキンの書斎である。白い壁に本の机が置かれ、初期の一九一九年ごろのブランクーシやモジリアニに似た作品から晩年の作品まで、二十点近く置かれている。モジリアニ作のデッサン「ザッキン像」も掛けられている。
続く部屋は居間兼アトリエだったのだろうか、天丼からの光も射し、明るく大きな部屋で、ここには三十点くらい飾られている。「両性具有者のトルソ」(一九二五)や「ヴィーナス」は幾何学的な線の多いザッキンとしては柔らかいフォルムでつくられている。
ここから二部屋アトリエが続く。天丼が高く、なかには三メートルもある「プロメテウス」」(一九五五―五六)や高さ二メートルの「ピエタ」(一九五六―五七)の大きな彫刻があった。「ギター弾き」の二・五メートルの作品には身体中に詩が刻まれている。音楽と詩はザッキンの中から自然に出ているものである。小さいころからバイオリンを弾き、さまざまな楽器に魅せられていた。作品の中には、いつも音楽と詩がある。それらを通じてヒューマニズムを表現する。
ニ階には寝室や小さな居間として使われていた部屋がある。現在は館長や、留守番の部屋として使われているが、椅子や机はそのまま保存されている。書棚の中に『光琳の扇面画集』『パリと日本』『国立博物館名画集』など日本の画集が置かれている。日本人形や″鏡獅子″など、日本へもたびたび訪れたザッキンらしいコレクションである。
こうして、すべての作品を見ていると、晩年だんだん抽象的な制作をしていたこともわかり、作品の年代を通じての変化を展望することができる。ザッキンというとキュビスム風な幾何学的な作品が思い浮かぶが、この美術館で彼の全作品にふれ、作者の深い心にいっそう近づけたように思う。
木と森、生物への愛、そして人生を静かに鋭く見つめる眼がここにはあった。″アサスのお楽しみの場所″はザッキン芸術にとって不可欠の空間であり、ここで、詩人ザッキンは人生の歌を彫刻に託して制作していたのだろう。
出所:『美術館へ行こう』長谷川智恵子
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