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ブランクーシのアトリエ(フランス) 2009年7月14日更新
【和:ブランクーシのアトリエ】 |
【英:Musee Brancusi】 |
研究機関|>ブランクーシのアトリエ(フランス) |
パリのポンピドー・センターの広場にブランクーシのアトリエが移築されている。屋根はトタンぶき、壁はクリーム色の漆喰で、閉ざされた白い本の鎧戸に蔦のからまった小屋は、忘れられた倉庫のようにひっそりと建っていた。遠くから見たら、これがあの有名なブランクーシのアトリエとは思えず、見過ごしてしまいそうなたたずまいである。
小屋の扉は閉まっていた。扉に『強くたたいて下さい』と書かれた小さなメモが貼ってある。その扉は、ブランクーシの代わりに、ポンピドー・センターのバッヂを付けた女性が開けてくれた。
コンスタンチン・ブランクーシは、 一八七六年二月にルーマニアに生まれ、十八歳のときからクラオヴァの美術学校に通い、二十一歳のときにブカレストの美術学校に学んだ。 一九〇二年、二十七歳のときに初めて作品の注文を受け、翌年、ミュンヘン、スイスを経て徒歩でパりへ出た。二十九歳でパリの美術学校に入り、アントナン・メルシエに師事した。翌年、サロン・ドートンヌに出品し、ロダンに出会うのである。その後、ルソー、レジェ、モジリアニとも親交を結んだ。一九二一年、マン・レイの援助でカメラを備え、独自の写真のテクニックを編み出し、自分の作品やアトリエを数多く撮影した。ポンピドー・センターの書店では、その写真集を販売しているが、なかなか素晴らしいものである。 一九二六年に、このアトリエのあったロンサン通り十一番地に移り住み、一九五七年に八十一歳でこの世を去った。亡くなる前の年にフランス国家にアトリエ全体を遺贈することを約束していた。アトリエは、まずバレ・ド・トーキョーの近代美術館の中に小規模で移築され、 一九七七年、ポンピドー・センターの開館にともなって広場の隅に本来の大きさのものが移築された。
アトリエの中は天丼から入る自然光が柔らかい光の林をつくっていた。どの作品も平年に置かれ互いに空間の中で寄り添っている。ルーマニアの血は、バリにあって東洋と西洋の微妙な接点を美しく昇華したようである。なめらかな表面の石や本に悲しみはない。その単純化された形態に理屈っぽい難しさはなく、あくまでもまろやかで、喜びがそこにはあるように思えた。子供のように素直な美しさと若さがすべての作品に漲っている。こうして身近に見るブランクーシの作品群は、戸外の喧噪をよそに、人間本来の生き方を示しているようにさえ思えて、彼のヒューマンな温かさを感じさせるのであった。
アトリエは四室に分かれている。初めの部屋は一番大きく、木や石の作品が林立していた。「無限の柱」は七メートルくらいの高さがあるだろうか。好んでつくったといわれる鳥シリーズ、「眠れる女神」など五十体ほどの作品が白い空間の中にあった。このアトリエでブランクーシは生活し制作していたのだが、アトリエそのものがすでに作品と一体化しているような感じである。彼にとって作品と空間には重要な関連性があった。写真集を作ったのも彼の望む空間の中で彫刻を人々に見せたかったからだろうし、空間と作品のハーモニーがブランクーシにとってどんなに大切であったかがわかる。次の部屋には白い暖炉があり、その奥の部屋に行くと、壁に、のみ、はさみ、鋸、ドリルなどの道具類が整然とニ百個ぐらい並べて掛けてあった。部屋の中心には滑車を使ったドリルが天井からロープで下がっていた。反対側の壁にはパレット、錆びたゴルフ道具、ギターなどが掛かっている。
最後の部屋には、制作中の石が真ん中に置かれ、その前にカメラが据えつけられていた。
全体に余分な飾りのないアトリエである。画家のアトリエと違って色のない白い世界だった。一九九三年四月現在、このアトリエは閉館中で、ブランクーシの作品はポンピドー・センター内に展示されている。アトリエの別の場所への移築が検討されているようであるが、またこのアトリエの中で彼の作品をゆっくりと鑑貨することができる日が待ち遠しいことである。出所:『美術館へ行こう』長谷川智恵子
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