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ギュスターヴ・モロー美術館(フランス) 2009年7月15日更新
【和:ギュスターヴ・モローびじゅつかん】 |
【英:Musee Gustave Moreau】 |
研究機関|>ギュスターヴ・モロー美術館(フランス) |
ギュスターヴ・モロー美術館はパリのラ・ロシュフーコー街にある。ここはモローが終生住んだ家であり、四階建ての石造りの建物をそのまま美術館にしたものである。生前、彼は遺言状を書いた。『私は私の家を、その絵画、デッサン、下絵など五十年間の副作物と共に、画家の生涯の仕事及び努力の全体がいつでも分かるように、その特徴を保ちながら、必ず守り続けるという条件で国家に遺贈する。』
この遺志は今でも完全に守られていて、油絵八百五十点、水彩画三百五十点、七千点を超えるデッサンなど、モローの作品が年代を追って陳列されている。
ギュスターヴ・モローは一八二六年、パリのサンペール街に生まれた。父のルイ・モローは建築家で芸術愛好家であった。ギュスターヴ少年はハ歳のころから絵を描き始めたが、両親がその才能に気づいたのは、十五歳のときのイタリアヘの家族旅行の折であったという。二十六歳のとき、サロンに大作「ピエタ」を初出品して、画家としての本格的なスタートを切った。三十歳のとき、二年間のイタリア生活を経験し、ローマの素晴らしさに魅せられ、古い歴史の中のさまざまな刺激は彼を夢中にさせた。その成果として、三十七歳のとき再びサロンに出品した「オイディプスとスフィンクス」が注目を浴び話題騒然となった。四十歳のとき、世界中で作品展を開き、その後五十歳近くまでは一点も発表しなかった。五十歳のとき、フランス政府は最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章を贈った。その翌年、「ヘラクレスとヒドラ」「踊るサロメ」「聖セバスティアヌス」などの大作を発表しパリ画壇の話題を集めた。五十二歳でパリ万国博覧会に出品したのを最後に、再び発表することはなかったが、七十ニ歳で死の床についたときですらスケッチブックを離さなかった(一八九八年四月十八日没)。
美術館の玄関の鉄の扉は固く閉ざされている。『御用の方は右側の呼びリンを鳴らして下さい』という札が掛かっていて、押してみると玄関番の人が出てきて、おもむろにドアを開けてくれた。玄関の周囲の壁から展示は始まっている。木の階段を一番大きい部屋である三階までのぼる。この部屋は壁面一杯に大小の作品が掛けられている。
この部屋の奥の壁には「求婚者たち」と「テスピウスの娘たち」があるが、この二点は一八五二年ごろ描き始めて晩年に再び手を入れているのでモローの進歩を見ることができる。
「神秘の花」はモローの名作とされている。彼の言葉に『大きな百合の花冠は聖母マリアの像の玉座の役目をしている。彼女のために死んだすべての殉教者は、この神秘の花に純潔の象徴である彼らの血をふりかけた』とあり、この世とは思えぬ静けさと殉教者の上に咲いた女性に神々しいほどの気品を感じた。
三階から四階にのぼるらせん階段は木造りでギーギーと音をたてそうに古めかしい。四階には二つ部屋があり、ここも壁が見えないほどに絵が掛けられている。正面に「ユピテルとセメレ」がある。真っ青なバックに宝石のように細かく輝く美しい絵に、 息をのんで立ち止まった。隅々にまで神経が行き届き、気が遠くなりそうな装飾の細密描写には、インドや中近東を感じさせるものがある。次の部屋の「踊るサロメ」は未完成だけに、かえって制作上の苦心がわかって興味深い。三角獣」はアラビア風の作品であるが、この美術館の中で色彩の一番美しいものだ。
部屋の中央に家具がある。これはこの美術館の人気のある仕掛けで、四面が開いて各扉に水彩画が入れてある。それが回転をして、窓の光で好きなだけ見られるように工夫されている。これらの水彩画は油彩画と同じ主題も多く、彩色も巧みで名品揃いである。
三階も四階も一面が窓になっており、窓の下にはデッサン戸棚がある。これも工夫が凝らされていて折りたたみ式にデッサンがしまわれている。十九世紀後半を生きたモローの世界は生活の匂いのない世界である。それだけに神秘的な物語や神話の中に、私たちをひきずりこむ楽しさをもっている。出所:『美術館へ行こう』長谷川智恵子
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