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漢中市博物館 2010年4月3日更新

漢中市博物館

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研究機関|>漢中市博物館

漢中市博物館は,漢中市の城南,東よりの漢台にある。そこは,前漢の高祖劉邦が漢中にいた頃の邸宅と言われている。劉邦は漢中にそう長くはいなかったが,劉邦と彼の高官が残した古跡は多く,漢台はその一つである。
 漢台は七里台とも言われている。高さ7メートル,面積4,860平方メートル,周囲には磚と石で作った高い城壁が聳え,その上に姫墻があり,雄大且つ壮観である。漢台の上には望江楼,竹林閣,喜雨亭などの建築物がある。清朝に建った望江楼は現在でも残されている。それは三階建てで,高さ17メートル,楼上に登れば,漢中の全景が目に入る。『漢中府誌』にも「四面雲山,江流線のごとく,登高眺望郡中の大観なり」と記載されている。
 今日の漢中市博物館には歴史文物展示室と書画展示室がある。 1971年,褒斜道に褒河ダムを建設した時,全国重点文物保護単位となった「褒斜道の石門と摩崖石刻」を漢中市博物館にうつしたことにより,博物館の内容が更に豊富となった。
 褒斜道は,関中と漢中の山谷を貫く1本のトンネルである。南口は褒谷と言い,もと褒城県境,即ち今の漢中市にあり,北口は斜谷と言い,郿県にあることから「褒斜道」と言われている。全長約250キロで戦国時代から掘りはじめられ,又の名を「褒斜桟道」ともいう。これは,わが国において最も早くできた人工燧道であり,中国古代交通史と水利史の研究に貴重な資料を提供した。
 隧道の周壁と石門の南,褒河岸に,漢魏時代からの歴代の有名高官,文人,学士たちの詩がいたるところに残っている。いわゆる「漢魏十三品」とは,これらの石や崖に刻んだもののうち,長い間書法家に賞賛され,知られてきた珍品のことであり「石門刻石」といわれている。 1971年,褒斜ダム建設のとき水に没してしまったが,そのうち17の刻石を漢中市博物館に搬入した。
 「鄐君開通褒斜道碑」は,後漢明帝の永平六年(紀元63年)に刻んだものである。もと石門洞南崖にあったもので,一般に「大開く」といわれている。その内容は,漢中郡太守鄐君(名前は不明)及び彼の部下王宏,史前茂,張宇,韓琴などが水平六年,広漢,蜀,巴郡の罪人を率いて,褒斜道を切り開いたときの情況を記載している。
 「石門頌」は後漢桓帝の建和二年(紀元148年)に刻まれたものである。高さ3.3ノートル,幅2.6メートル,字体は隷書である。それには,「漢朝帝水平四年,楊孟文が切り開いた。桓帝建和二年になって,漢中太守と郡王升乃は,楊孟文のその開さくの功をたたえて,石に刻んだ」と記載されている。孟文は,楊渙の字(あざな)である。
 「褒雪」は石門洞南の褒河水中の巨石の上に右側から横に刻まれているもので,字体は隷書である。右下に「魏王」という2つの小さな字が刻まれている。世間では,「褒雪」の2文字は曹操が書いたものではないかと言われ,いつしか有名になった。
 「玉盆」は,もともと石門の南,褒河水中の大きな石に刻まれたものである。周囲には,「渓谷の絶景,玉盆の南に刻む」と言う題記がある。『漢中府誌』に「褒水の東岸,盆のような形の石あり,光沢玉の如し」と記されていることから,「玉盆」と呼ばれている。 このような石刻は長い間,人々に珍重されてきた。「参考資料」『中国唐俑の美』
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