名称:「丸木位里・丸木俊・丸木スマ展」東根市美術館
会期:2022年7月31日(日)〜10月10日(月)
開館時間:9:00~18:00(最終入場17:30)
料金:一般800円(700円)、高校生以下400円(300円)
※( )内は前売料金および10名以上の団体料金
※各種障害者手帳をご提示の方とその同伴者1名および未就学児無料
休館日:8/8(月)、8/22(月)、9/12(月)、9/26(月)
会場:東根市美術館(まなびあテラス)
住所:〒999-3730山形県東根市中央南一丁目7-3(まなびあテラス内)
TEL:0237-53-0229
URL:東根市美術館
《原爆の図》で知られる水墨画家・丸木位里とその妻である油彩画家・丸木俊。そして位里の母である丸木スマは70歳を過ぎて初めて絵筆をとったおばあちゃん画家です。
丸木位里・丸木俊夫妻の共同制作《原爆の図》は二人にとって重要なテーマであり生涯にわたり何度も描かれてきました。また、夫妻は各地を旅して、人々の暮らしや風景を主題にした絵画や、その土地に伝わる民話の絵本も数多く描いています。
スマは位里・俊に励まされ次々と身近な生きものや里山の風景を題材にした絵を描きました。独自の視線でとらえ、表現されたその作品は温かく、観る者をスマの世界へと引き込む力を持っています。
本展では、三人の作品を3章にわけてご紹介し、位里、俊、スマの世界観とそのメッセージを皆さまにお届けします。
丸木 位里 (まるき・いり 1901–1995)
丸木位里は、1901年6月20日に広島の太田川の上流の農家に生まれた。戦前には前衛的な美術団体である歴程美術協会や美術文化協会に加わり、抽象やシュルレアリスム(超現実主義)を取り入れた独自の水墨画を発表して高い評価を受けた。1941年に油彩画家の赤松俊子と結婚。1945年に広島に原爆が落とされた時には、数日後にかけつけ、その様子を目撃した。やがて夫婦共同制作で《原爆の図》の制作に取り組み、30年以上の歳月をかけて15部の連作を完成。その一方で風景を中心としたスケールの大きな水墨画を数多く残している。1995年10月17日永眠、享年94歳。
丸木 俊 (まるき・とし 1912–2000)
丸木俊(赤松俊子)は、1912年2月11日に北海道秩父別の善性寺に生まれた。女子美術専門学校(現・女子美術大学)で油絵を学び、その後、モスクワ、ミクロネシアに滞在。 油絵やスケッチを多数描き、二科展に入選した。1941年に水墨画家の丸木位里と結婚。戦後は《原爆の図》をはじめ《南京大虐殺の図》、《アウシュビッツの図》、《水俣の図》、《沖縄戦の図》など 社会的主題の夫婦共同制作を発表している。また、すぐれた絵本作家としても知られ、『ひろしまのピカ』、『つつじのむすめ』などの絵本は今も多くの人に読み継がれている。2000年1月13日永眠、享年87歳。
丸木スマ(まるき・すま 1875-1956)
丸木スマは、1875(明治8)年に広島県安佐郡伴村(現在の広島県安佐南区)の農家に生まれた。20歳で飯室村(現在の広島市安佐北区)の丸木金助と結婚し、家業の船宿と農作業をきりもりしながら三男一女を育てる。1931(昭和6)年に傾いた家業に見切りをつけて広島市に移り住み、1945(昭和20)年には原爆を体験、それが原因で夫を亡くす。70歳を超えて長男夫妻(位里・俊)のすすめで絵筆をとる。1956(昭和31)年に81歳で亡くなるまでのおおよそ9年の間に700点以上もの厖大な作品を残した。
【原爆の図丸木美術館について】
1945年8月6日、広島に人類最初の核兵器、原爆が投下された。知らせを聞いた広島出身の丸木位里と妻の俊は、数日後に現地に入り、そこで目のあたりにした惨状の記憶や多くの被爆体験者の証言をもとに夫婦共同制作で《原爆の図》を描き、国内各地や世界20カ国以上で巡回展を行った。その後《原爆の図》を一つの場所で見られるようにと1967年、埼玉県東松山市下唐子(しもがらこ)の都幾川(ときがわ)のほとりに美術館を開館。丸木夫妻は30年以上の歳月をかけて《原爆の図》全15部を完成させた(第15部《長崎》は長崎原爆資料館が所蔵)。新館ホールには、《南京大虐殺の図》、《アウシュビッツの図》、《水俣の図》などの晩年の大作を展示し、傷ついた人々の視点から戦争や公害を深く見つめた丸木夫妻の想いを伝えている。また夫妻の作品の他、丸木位里の母、丸木スマ、妹の大道あやの色彩豊かな絵画も収蔵・展示されている。
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