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天壇 2007.03.19更新

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天壇

【和:てんだん
【中:Tian tan
明・清 >天壇

  天壇は北京市の南北を走る中軸線の南端にあり、明清両代の皇帝が天の神を祭り、雨を乞い、五穀の豊穣を祈るところで、明の永楽十八年(1420年)に築造され、清の乾隆年間(1736―1796年)の改築を経て今日の規模に形成された。
天壇は、東西の長さ1700m、南北の幅1600m、総面積273万円2の建築群からなり、園丘と祈穀の2壇を含み、内外2層の塀で囲んでおり、全体は「回」字形を呈している。塀の北部分はアーチ形をなしており、南部分はそれぞれ東西両塀と接し、直角をなして四角形のようにしている。「天地∥昔」と呼ばれたこの「北丸く南四角」の塀の配置は、「天は丸いもので、地は四角のもの」、といった古代中国の天地観から考案したものらしい。外壇を囲んだ塀の東、南と北には門がなく、西だけは園丘壇門と祈穀壇門(天壇間とも呼ぶ)の2門が設けられた。これに対して内壇を囲んだ塀は、東西南北の4面にも門がある。内壇は祭壇と斎宮が設けられてあり、東西に走る壁を境に、南は天を祭る国丘壇で、北は五穀の豊穣を祈る祈穀壇である。この南北の両壇は、レンガを用いて地面より高くできた、長さ360mの通路一丹陛橋でつないでおり、丹陛橋は天壇の南北を走る長さ1200mの軸線の一部である。
天壇は、最初の名は「天地壇」と呼ばれ、明の嘉靖九年(1530年)北京北郡に地壇ができ、天と地の粋を分祭することが実現した後になって、はじめてその名が示したとおり「天壇」となった。天壇の主体建築は内壇に集中しており、南には国丘壇があり、北には祈穀壇(祈年殿)がある。南北の両壇は広
くて平坦な「海堰大道」、つまり丹陛橋を用いて完全な1組の建築群を作り上げている。境内は樹齢の長いコノテガシワの老木が生い茂り、荘厳静粛の雰囲気に満ちている。デザインと築造工事には中国を代表する明・清両代の建築芸術を集めた。祈年殿と皇弩手は木造の円形の建物で、大きくて精巧にできた古代建築の精品である。環境配置の面では、広い面積の木々と植生を用いた。これは古代の人々の「天人協和」といったエコ意識の具現である。天壇は場所の選定、企画、デザインから、祭TEの行事や築舞に至るまで、すべては古代のJ周易¬が説いた陰陽や五行学説に基づいており、「天」に対する認識や、バランスの取れた「天人関係」および天の神への祈願が託されている。天壇は1994年、『世界遺産リスト』に書き入れられた出所:中国世界遺産「天壇」

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