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故宮博物院 2007.02.26更新
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世界にその名を轟かせる北京故宮博物院は、毎年中国内外からの参観者800万人を迎えている。世界最大を誇る宮殿を実際に目にした人々の中にも、皇宮が国有化され、国家博物館になった経緯を知る人は殆どいないだろう。1925年、明?清両代にわたって皇居であり続けた紫禁城が故宮博物院となり、中国初の国家的博物館となった。
1.故宮博物院の成立
1911年、孫文に指導された辛亥革命により、清朝の封建政権は幕を閉じ、王朝政治の権力の象徴であった紫禁城は、政治機関としての役目を終えた。この3年前に即位した6歳の宣統皇帝•溥儀は退位の詔書を発し、清朝は終わりを告げて中華民国政府が成立した。しかし、廃帝となった溥儀は革命後も13年間にわたって紫禁城に住み続け、紫禁城の貴重な文物は溥儀によって下賜の形で親族に贈られた。内務府の抵当に取られたり、太鑑たちに盗まれたりして、民間に流出した文物も多かった。続いて起こった1923年の火災は、紫禁城の西花園と付近にあった宮殿建築を焼き払い、一部の貴重な文物が消失している。
1924年11月4日、中華民国臨時政府摂政内閣会議は、廃帝•溥儀の紫禁城からの退去を決議し、北京守衛司令官の鹿鐘麟、北京警察総監の張璧、教育文化人李煜瀛が国民代表として溥儀に内閣決議を渡し、転居について協議した。当初、溥儀は随行人員と荷物が多いことを口実に、紫禁城を即日に退去するのは困難であるとしたが、鹿司令官らから厳格な口調で退出命令を言い渡され、その日の午後、溥儀は正妻、第二、第三夫人、及び元宮廷大臣、太鑑、女官たちを従え、許された手荷物だけを持って紫禁城を出た。
溥儀とその親族を紫禁城から追い出した1924年11月7日、臨時政府は「清室善後委員会」を組織し、清朝皇室の財産を清算することを決定する。
1925年9月、清室善後委員会は会議を開き、故宮博物院の設立を決定、会議では『故宮博物院臨時組織大綱』、『故宮博物院臨時取締会規定』、『故宮博物院臨時理事会規定』が採択され、初代取締役と理事名簿を作成し、10月10日に成立式典を行うことを決議した。
1925年10月10日午後、故宮乾清門前で、厳かな故宮博物院成立のセレモニーが行われ、3000以上の各界から出席者の前で、故宮博物院の設立が正式に宣言された。
故宮博物院の設立を祝うために、オープンの2日間、1元の入場料を半額にし、御花園、後三宮、西六宮、養心殿、寿安宮のほか、新設された古物陳列室、図書館、文献陳列室などを公開した。神秘のベールに包まれた皇居を見ようと、毎日の5万人の参観者が詰め掛け、故宮博物館は大盛況であった。
清室善後委員会は、清朝が宮廷で使用した物品の調査と故宮博物院設立のために、多くの文化教育界の著名人を委員会のメンバーや補佐役、顧問として招聘した。彼らは、故宮博物院の設立において基礎的な仕事をしている。
2.文物の大移転
故宮博物院が徐々に軌道に乗りつつあった1931年、日本帝国主義は「九?一八」事変を起こし、東北三省を占領した。東北地区の陥落したことで、北京、天津をはじめとする華北地区も脅威にさらされるようになった。日本侵略軍が北平(現在の北京)に侵入すれば、故宮博物院の文物も壊滅の危機に直面する。悪化しつつある態勢の下、故宮博物院理事会は、文物を地方に移転することこそ万全の策と考えた。こうして、理事会は国民政府に報告した後、故宮博物院の文物を上海に移すことを決定し、1933年1月から5月15日までで、5回に分けて計1万3000点の文物を南に運んだ。
1936年8月、南京朝天宮の文物倉庫が完成し、12月に上海に運ばれた文物が数回に分けてここに搬入された。しかし、北平での「七?七」事変の後、日本帝国主義は上海でも「八?一三」事変を起こし、中日は全面戦争に突入する。南京にも日本軍占領が迫ってきたため、南京の倉庫に運ばれたばかりの文物も、緊急に更に後方に移転せざるを得なくなった。この時、文物は3回に分けて西部後方に運ばれている。
西部移転の第1回目輸送は1936年8月14日に開始された。南京で船に積み込まれた文物は湖北省漢口で陸揚げされ、鉄道で湖南省の長沙に輸送された後、1938年1月に広西の桂林、柳州を経由して、当年の11月に貴陽西の安順県に運ばれ、そこで保管された。
淞滬での戦闘が失敗した1937年11月、第2回目の輸送が開始され、文物は船で漢口に運送されたが、間もなく、南京が陥落し、漢口が敵機爆撃の危険にさらされるようになったため、同年12月に再び船で宜昌に運ばれ、そこから小舟で重慶に輸送された。このときは文物の数量が多かったため、輸送作業は1938年の5月まで続いた。
第3回目の移転は1937年11月下旬に行われた。このときは先ず、上海――天津鉄道で徐州に運び、そこから連雲港―蘭州鉄道を利用して陝西省宝鶏に輸送したが、間もなく潼関も危険になり、文物は漢中に移転された。しかし、漢中でも敵機の爆撃が始まり、文物は成都に運ばれることになった。その後、漢中の倉庫が爆撃を受けたが、文物が運び出されたあとであったため、間一髪で破壊を免れている。
2.国宝保護に尽くした一家4代
度重なる困難に見舞われた文物移転に、多くの人々は黙々と自らの青春を捧げた。80歳の梁匡忠さん一家は、故宮の国宝と旅を共にして来た。梁匡忠さんの祖父、父親、息子は皆故宮博物院に勤務している。梁氏の父親は第3回目の文物移転の責任者の一人で、匡忠さんも父親とともに国宝を守りながら成都に辿り着き、そこで結婚し、子どもをもうけた。後に、一部の国宝は台湾に輸送されたため、匡忠さんの父母と2人の子どもも台湾に渡っている。そのときから、一家は台湾海峡を隔てて暮らすことになった。
文物を輸送する旅で、梁さん一家は数々の苦難に見舞われた。文物を敵機の爆撃や強盗の略奪から守るため、悪路を選んで進まねばならないこともしばしばであった。梁さん一家のような名も無き人々の献身によって、文物は破損や遺失から守られたのだ。
抗日戦争勝利後、文物は北平故宮博物院と南京分院に戻された。南京から台湾への文物運送は1948年9月以後に開始され、1434箱の古物、1334箱の書画、204箱の文献を含む計2972箱の文物が、3回に分けて台北に輸送され、現在、台北故宮博物院に収蔵されている。
当時、蒋介石は北平故宮博物院の馬衡院長に、院内の文物を至急南京に運ぶよう命じていたが、馬院長が文物の箱詰め作業をわざと遅らせたため、飛行機での運搬作業は終に実行されなかった。馬院長の共産党員の親族が、秘密ルートを通じて馬院長に文物の航空輸送を阻止するように連絡していたからである。
馬衡院長(1935年~1952年在職)は、解放前のこの時期、国民党政府の文物の南京航空輸送命令のみならず、自身に出された南京撤退命令にも抵抗し、故宮博物院の文物を保護したばかりではなく、故宮博物院の設立初期と以後の発展に不滅の貢献を残した。
3.故宮の歴史:
故宮は、明の永楽十八年(1420年)に紫禁城として建設された。600年の歴史を有する故宮は、世界に現存する宮殿建築の中で最も大きく、最も完璧に保存された旧皇宮で、北京市の中心に位置する。
明朝は、永楽四年(1406)から永楽十八年(1420)まで14年間をかけて、紫禁城の造営工事を行った。この造営工事には、全国から職人10万人、人夫百万人以上が徴用され、各地から建材が運ばれたという。明の永楽帝から、清末の宣統帝までの491年間にわたり、計24人の皇帝がここで暮らした。皇帝の平均寿命は43歳、最も短命であった皇帝は19歳で崩御した清の同治帝で、最も長寿を保った皇帝は同じく清の乾隆帝で、享年89歳であった。
1925年10月10日、旧皇宮と宮廷所蔵の文物を基礎に、故宮博物院が設立される。宮殿建築群と歴代の芸術品、宮廷文化史跡を主とする綜合的大型国家博物館の誕生である。
故宮の建築は雄大で、夥しい宮殿や楼閣で構成されている。故宮の周囲は高さ10m、長さ約3.4kmの城壁で囲まれており、城壁の四面にそれぞれ門が開かれている。南は午門、北は神武門、東は東華門、西は西華門と呼ばれ、四隅にはそれぞれ精緻を極めた角楼が聳えたっている。敷地面積は72万㎡、建築面積は約15万㎡、現存しているものだけで8728室の部屋がある。現在の公開面積は43万㎡、城外には、幅52m、長さ3.8kmの濠がある。
建築構造とその用途によって、故宮は外朝と内廷に分けられる。
外朝は太和殿、中和殿、保和殿を中心に、東の文華殿と西の武英殿が両翼を固める形になっている。外朝は皇帝が重大な式典を行う場所であった。
乾清宮、交泰殿、坤寧宮、御花園、東西六宮、養心殿、寧寿宮、慈寧宮などの宮殿で構成される内廷は、皇帝が日常の政務を執り、皇后、妃、嬪、太后、太妃たちが住んだ所である。
故宮博物院の所蔵文物は絵画、書、拓本、彫塑、銅器、陶磁器、刺繍、玉器、金銀器、珍宝、漆器、琺瑯、彫刻、文具、生活用品、時計、計器、勅命冊、宗教文物、武器、儀仗、善本文献、外国からの献上品など計24部門、100万点に上る。
目下、宮廷陳列館、珍宝館、時計館、青銅館、石鼓館、戯劇館、玉器館、琺瑯館、溥儀宮廷生活展などが公開されている。
故宮博物院:http://www.dpm.org.cn
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