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諸葛亮 2008年08月07日(木)更新
181~234年
天才参謀がたどった軌跡
諸葛亮、字は孔明。したがって、諸葛亮孔明、あるいは諸葛亮とするのが正しい。幼いころに父を失い、叔父のもとで育った。並外れた知性と知識の持ち主である。戦乱の世に誰にも仕えることなく、晴耕雨読の日々を送っていたところに、劉備がやってきて、「三顧の礼」を尽くされたので、参謀となる。
最初の大仕事が、全権委任大使として呉の孫権のもとに行き、同盟を組もうと説得することだつた。二〇八年、曹操が大軍を率いて南下し、劉備軍は壊滅的打撃を受けた。孫権と同盟を結ぶしか、劉備の生き残る道はなかった。だが、孫権としては、曹操に降伏するという道がまだ残されていた。孫権が劉備と結び曹操と戦う気があるのかどうかは、まったく分からない。さらに、本来ならば、劉備は孫権と対等の立場にはなかつたが、なんとか優位な形での同盟関係にしなければならない。
諸葛孔明は孫権と対面するなり、「曹操は強い。降伏したほうがいい」とさぐりをいれた。孫権は驚き、「なぜ、劉備は降伏しないのか」と訊き返した。孔明は、「劉備殿は漢王朝の血を引いているので、曹操になど降伏できない」と答えた。孫権への挑発である。孫権はそれに乗ってしまい、「私も降伏するつもりはない」と言う。「ならば、同盟を結ぶしかない」と孔明は言って、具体的に、曹操軍の兵力を分析し、劉備と孫権が手を結べば勝てることを説明した。孫権は参謀の周瑜の意見も聞いた上で、劉備と同盟を結び、曹操と戦うことを決断。こうして、劉備と孫権による反曹操同盟が確立され、曹操の誇る水軍を赤壁の戦いで壊減させるのに成功した。その後も、さまざまな戦略・戦術を立て、天才軍師として劉備に仕え、蜀帝国の建国まで導いた。もつとも「三国志」で伝えられる活躍ぶりには、フイクションもかなりまざつている。
蜀帝国の丞相になっだ諸葛孔明は、法律・制度を整備し、官職も整え、賞罰のけじめも明確にし、公平な政治をおこなった。国民から厳しい人だが正しい人だと慕われた。軍師としてよりも、内政の得意な政治家・行政マンとしてのほうが有能だったという説もある。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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