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馮道  2008年08月16日(土)更新

馮道
【和:ふうどう
【中:Feng dao
隋・唐・五代|歴史人物>馮道

(八八ニ~九五四年)
 馮道は中国五代十国時代の政治家。五朝八姓十一君に仕えた。瀛州景城県来蘇里(河北省滄州市)の生まれ。字は可道、号は長楽。
フランスのジョセフ・フーシェは、革命時代はジャコバン派として反革命派の粛清にあたり、ナポレオンが権力を握るとその片腕の警察庁長官となり、ナポレオンが倒れると王制復古派として活躍した。三つの全く主義主張の異なる政権で要職にあつたのだ。同じように中国にも、五つの王朝にずつと仕えた男がいる。馮道である。動乱の時代は、洋の東西を問わず、似たような人物を生むのかもしれない。
馮道は唐時代末期の黄巣の乱のさなかに生まれた。官吏の道を進んでいたが、任地の節度使の方針に反対したため獄に入れられてしまった。結果的に、これが世に出るきっかけとなった。それを、李克用の重臣によって見出され釈放されたのである。
李克用が死に、その子・李存勗が後梁を滅ぼして後唐を建てると、馮道は出世していく。後唐の明宗の代になると、ついに宰相に抜擢された。九三二年の明宗の没後、閔帝が即位しても、引き続き宰相をまかされた。だが、明宗の養子の李従珂が反乱を起こすと、閔帝を廃位させ、李従珂の即位をうながした(末帝、あるいは廃帝と呼ばれる)。自分が即位させたのに、末帝の時代は宰相を辞した。末帝が長くないとみて、巻き込まれるのを恐れたのかもしれない。現実に、末帝は明宗の女婿の石敬によって滅ぼされ、後唐の時代は終わり、後晋となる。すると、皇帝となった石敬(高祖)が宰相に指名したのは、何と、馮道だったのである。
後晋にとつての最大の課題は契丹(遼)との関係をどうするかである。後唐を倒すときは契丹の力を借りた。だから、頭が上がらない。だが、それは漢民族としてはおもしろくない。現実には勝ち目はなかったが、後晋王朝内には、常に契丹討伐をすべきという主戦論が渦巻いていた。だが、馮道はそれには乗らなかった。外交使節として遼の太宗と会見すると、逆に太宗に見込まれてしまい、そのまま遼に残れと言われたくらいだった。そのせいなのか、馮道は主戦論には賛成せず、そのためか地方に左遷されてしまつた。これが、結果的には幸いした。
九四六年、遼は大軍を編成し攻め入り、後晋は崩壊した。通の太宗は馮道を太傅の地位に任命した。こうして、馮道は三つ目の王朝に仕えることになった。しかし、遼は激しい抵抗にあつたため、中原の地の征服は断念し、東北部の自分たちの領地に引きあげた。代わりに建国されたのが、劉知遠の後漢である。
馮道はこの王朝にも仕えた。すでに六〇代半ばだったので、名誉職的な実権のないポス卜ではあったが、後漢としても新政権の基盤を作るために、馮道の名声を必要としたのであろう。これが四つ目の王朝である。
そして九五一年、郭威による後周が建国されると、馮道はまたも宰相に就任するのである。
こうして、馮道は中原の四つと契丹族の遼と合計五つの王朝に仕え、後周の宰相に就任して三年後の九五四年にその波乱の人生を終えた。
馮道への評価は、二つに割れる。ひとつは、いうまでもなく、節操がない、ということだ。だが、それへの反論として、馮道は個別の王朝、あいるは個別の皇帝に仕えたのではなく、「中国」そのものに仕えたのだ、と弁護する意見もある。
彼が目指したのは、自分の栄達でも贅沢に暮らすことでもなければ、それぞれの王朝が栄えることでもなかった。中国が再び統一されて平和な時代になること、そして民の暮らしが豊かになることだった。そのために、その時々に最も適切と思われる行動をとったとも解釈できる。中国を再び統一する宋が建国されるのは、馮道の死から六年後のことだった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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