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桃園結義 2008年09月04日(木)更新
【和:とうえんけつぎ】 |
【中:Tao yuan jie yi】 |
秦・漢・三国|>桃園結義 |
「黄巾の乱」討伐のための義勇軍募集の知らせは、首都の洛陽から遠く離れた、涿郡涿県(河北省涿県。現在の北京市の南西に位置する)にも届き、劉備(一六一~二二三)の運命を大きく変えることになった。
劉備あざな玄徳は真偽のほどは定かでないが、前漢王朝の景帝(紀元前一五七~一四一在位)の子、中山靖王劉勝の後裔だとされる。だが、中山靖王以来、三百年以上の時の経過とともに、この家系は零落の一途をたどった。ただでさえ貧しいところに、幼いころ父を亡くした劉備は、母を助けてワラジを売ったリムンロを編んだりして、辛うじて生計を立てながら、貧窮のドン底で成長した。 貧民としかいいようのない暮らし向きにもかかわらず、幼いころから劉備にはどこかただ者でない雰囲気があった。たまたま劉備の生家に高さ五丈(約十メートル)もの桑の木があり、遠くから眺めると車の蓋のようだった。これを見たある人はこの家からはきっと貴人が出るだろう」と予言し、劉備自身も幼いころ、「おれはきっとこんな羽飾りのついた天子の車に乗ってやるんだ」とうそぶいていたという。
そんな劉備を見込んで親成が学費を出してくれ、十五歳のときに遊学、同郡出身の 盧植のもとに弟子入りした。相弟子のなかに、のちに後漢末の群雄の一人となる公孫(?~一九九)がおり、親しい友人となった。とはいえ劉備は勉強の方はいたって不得手で、犬や馬や音楽を好み、華美な衣装を身につけて闊歩していた。派手好みの任俠派だったわけだ。頭脳明晰とはいいがたいが、身長は七尺五寸(約一七三センチ)、手を下げると膝までとどき、よりかえると自分の耳をみることができるという、特徴のある堂々たる風格と、人にへりくだり、無駄口をいっさいきかず、喜怒を表にださない抑制のきいた性格によって、彼の周囲には、いつしか大勢の腕自慢の若者が集まるようになった。劉備はことさらリーダーシップを発揮しなくとも、自然に集団の核となる不思議な素質の持ち主だったのである。 黄巾の乱が勃発した中平元年ごろ、すでに涿県付近の無頼少年の小ボスだった劉備は、二人の途方もない一豪傑と運命的な出会いをする。関羽あざな雲長(?~二一九)と張飛あざな益徳(?~二二一)である。関羽はもともと河東郡解県(山西行臨猗県)の出身だが、事件をおこして故郷から出奔し、涿県に来たところで劉備とめぐりあった。彼は「三国志』世界でも屈指の豪傑であると同時に、『春秋左氏伝」に通暁するなど、なかなかの知性派でもあった。かたや劉備と同じ涿郡出身の無頼派張飛は、教養の持ち合わせなど皆無だが、文字どおり直情径行の人であり、その剛勇ぶりにはのちに「万人の敵(一人で一万人を相手にできる)」と謳われるほどの迫力があった。
この関羽・張飛という世にも稀なる二人の一豪傑が、おりしも後漢末の乱世において、中央から遠く離れた片田舎の涿県で、漢王朝の血筋と称する劉備とめぐりあったのは、奇跡としかいいようがない。彼ら二人はたちよち意気投合して義兄弟の契りを結ぶにいたる。十四世紀後半の元未明初、羅貫中が著した小説『三国志演義』では、これをフィクショナルに誇張して、張飛の家の裏庭にあった桃園で、三人が以後、生死をともにする義兄弟の契りを結んだとする。いわゆる「桃園結義」である...。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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