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劉備台頭・挫折  2008年09月05日(金)更新

劉備台頭・挫折
【和:りゅうびたいとう・ざせつ
【中:Liu bi tai dou cuo zhe
秦・漢・三国|>劉備台頭・挫折

 董卓が死ぬ前年の初平二年(一九一)ごろ、劉備が身を寄せていた公孫瓚と袁紹の争いが激化し、劉備はこの袁紹軍との戦いでしばしば戦功を立てて、平原(山東省平原県を中心とする地域)の長官に任命された。平原は行政単位としては郡相当だから、安喜、下密、高唐と小さな県をうろうろしていたそれまでと比べれば、格段の出世である。
このころ袁紹は完全に冀州を支配下におさめて冀州の牧となり、曹操は兗州(河南省東部から山東省西部にわたる地域)の東郡(河南省濮陽県付近)に根拠地を置き、東郡の太守となっている。のちに曹操の名参謀となった荀彧(一六三~二一二)が、最初に身を寄せた袁紹に失望し、曹操こそ乱世をおさめ天下を統一できる人物だと考え、その傘下に入ったのも、ちょうどこのころである。後漢末の抵抗派知識人「清流派」の若きホープ荀彧の協力を得たことは、曹操の最大の幸運であった。以後、荀彧の推挙により、その従子の荀攸をはじめとする多くの有能な清流派知識人が、続々と曹操のブレーンに加わり、その政権基盤を固めたのである。
初平三年(一九二)、董卓の死後、曹操の勢力は飛躍的に強化された。兗州に侵入した百万にのぼる青州の黄巾軍との戦いで、兗州刺史の劉岱が敗死すると、その部下の要請をうけて後任の刺史となり、兗州全域の支配権を得た。勢いに乗る曹操は青州黄巾軍を屈服させ、その降伏兵二十万余りを吸収して、軍事力を一挙に増大させたのである。以後、これらの降伏兵は「青州兵」と呼ばれ、曹操軍国の重要な構成部分となる。
こうして首尾よく自己権力を確立した曹操は、董卓の乱がおこってから、琅邪(山東省臨沂県)に避難していた父の曹嵩を兗州に呼び寄せることにした。琅邪は徐州の支配領域であったため、徐州刺史の陶謙は配下の部将を派遣して、曹嵩を護衛させ曹操のもとに送りとどけようとした。ところが、この部将は曹嵩のもっていたおびただしい財宝に目がくらみ、途中で曹嵩一行を皆殺しにして、財宝を略奪してしまった。陶謙自身はこの事件とは無関係だったのだが、激怒した曹操はひたすら陶謙憎しの一念に凝り固まり、初平四年(一九二)秋、徐州に攻め込み、十余城を陥落させ、凄惨な虐殺をおこなった。しかし、陶謙を攻め落とすには至らず、曹操はいったん軍を引いて兗州に帰還したのだった。
ここで劉備の出番がまわってくる。曹操の猛攻に耐えかねた陶謙は、公孫瓚軍の一翼を担って、斉(山東省)に軍を進め、袁紹軍と対陣していた劉備に救援を求めた。劉備は数千の手勢を率いて陶謙のもとに駆けつけた。この時点で、劉備はそれまで行を共にしてきた旧友公孫?と手をわかち、陶謙サイドに移ったのである。興平元年(一九四)、恩義に感じた陶謙は上表して劉備を豫州(安微省を中心とする地域)刺史に任命し、小沛(江蘇省沛県)に駐屯させた。まったく名目だけとはいえ、劉備はついに地方行政単位としては最高位の州の長官にまでのしあがったのである。劉備の幸運はこれにとどまらなかった。まもなく重病にかかった陶謙は、「劉備でなければ、この州を保つことはできない」と言い残して死去し、この遺言によって、劉備はそっくり陶謙の地盤を受け継ぎ、徐州を領有したのだった。まさに棚からボタモチとはこのことであろう。もっとも、陶謙がこれほど見込んだのも、劉備に人の心を引き付けてやまない魅力があったからにちがいない。劉備は、ギラギラした権力欲をけっしてむきだしにしないことによって、逆に、いつのまにか欲しいものを手に入れてしまうタイプの人間だったのである。
こうして劉備はほとんどあっけなく徐州の支配者となって根拠地を確保、群雄の一人として頭角をあらわした。しかし、それもつかのま、とんでもないお荷物が徐州に転がり込み、劉備は庇を貸して母屋を取られ、せっかく手に入れた徐州から追われる羽目になってしまう。そのやっかいなお荷物とは、ほかならぬ呂布である。
呂布は養父の董卓を殺害した後、董卓の残党に追われて長安を脱出し、袁紹のもとに身を寄せたが、まもなく袁紹とも不仲になり、八方ふさがりの状態となった。呂布は無敵の象豪傑なのだが、いかんせん知性に欠けていた。興平元年、曹操は大軍を率いて、再度、陶謙征伐のため徐州へと出撃した。こうして曹操の根拠地兗州の軍備が手薄になった隙をつき、もともと曹操とそりが合わなかった曹操の部将陳宮が、留守を預かつていた曹操の盟友張逸と結託して、呂布を引き入れ、反乱をおこした。目から鼻に抜ける利巧者の陳宮は、力はあるが頭はもう一つの呂布を操って、賭けに出たのである。この計略は図に当たり、またたくまに兗州の郡や県は、曹操の腹心の程昱、荀彧、さらに猛将夏侯惇が守備する城、東阿、范の三県を除いて、すべて反乱軍側についてしまった。
この情報を得た曹操はただちに徐州から軍を返して交州に帰還した。呂布軍と死間を繰り返すこと百余日、興平二年(一九五)初め、ようやく定陶(山東省定陶県)で呂布軍を撃破、曹操は兗州全上を奪還することに成功した。こうして曹操が全力をあげて呂布と戦っていた間に、しばしの平穏を得た徐州で、陶謙から劉備への権力委譲が行われていたのだ。ところが、曹操に撃退され行き場がなくなった呂布は、あろうことか徐州に侵入して来た。このため、劉備が火の粉をかぶる番になった。
翌建安元年(一九六)、敗残の呂布を迎え入れた劉備は、手ひどいシッペ返しを食った。寿春(安徽省寿県)を拠点とする袁紹の従弟の袁術との戦いに出陣した隙に、呂布に本城の下邳(江蘇省邳県)を乗っ取られ、妻子を捕虜に取られてしまったのだ。下邳を守備していた張飛が、酒癖のわるさが災いして、もと陶謙の部将だった曹豹とイザコザをおこしたため、曹豹が寝返って呂布を引き入れたのが、この事件の発端だった。
かなわぬと見た劉備は辞を低くして呂布に和睦を申し入れ、自らは小沛の小城に移った。しかし、徐州の牧を自称した呂布は、劉備を徐州の領域から追いはらうべく、なおも小沛を攻撃したため、劉備主従は曹操に身を寄せざるをえなくなる。呂布という共通の敵の出現によって、曹操と劉備の利害が一致し、 一時的な結び付きが成立したわけだ。曹操の後押しで態勢を立て直した劉備は小沛を全還、建安二年(一九八)、呂布に襲撃され、またも曹操のもとに逃げ込むまで、この地を死守した。...出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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