考古用語辞典 A-Words

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曹繰華北統一  2008年09月05日(金)更新

曹繰華北統一
【和:そうそうかほくとういつ
【中:Cao cao hua bei tong yi
秦・漢・三国|>曹繰華北統一

  黄巾の乱および董卓の乱を契機として、いっせいに各地に割拠した群雄も、建安五年(ニ〇〇)の時点ではそのほとんどが淘汰されていた。呂布は曹操に滅ぼされ、袁術は袁紹のもとへ北上する途中で自滅し、劉備の旧友公孫瓚は袁紹に滅ぼされて自殺、曹操を一敗地にまみれさせた張繍も自立できなくなって、けっきょく曹操に降伏した。個人的武力で群を抜いていた孫堅は、初平四年(一九三)という早い時期に、荊州(湖北省)を支配する劉表を攻撃中に不慮の死を遂げ、後を継いだ長男の孫策が父譲りの天オ的な軍事的オ能を発揮し、盟友周瑜(一七五~二一〇)と一致協力して、またたくまに江東に根拠地を確保したが、いまだ群雄の激戦地帯である華北(黄河中・下流域一帯)に進出するにはいたらない。
というわけで、華北では、袁紹と曹操の二大勢力の対立の構図が自ずとあらわになった。二大勢力とはいえ、実は、軍事力そのものほ袁紹の方がはるかに優勢だった。ただ袁紹ははなはだ優柔不断のうえに猜疑心が強く、部下の進言に虚心に耳を傾けることができないという、リーダーとして致命的な欠陥があった。その点曹操は決断力抜群、おまけに荀彧をはじめとするブレーンの意見を実によく聞いた。両者の対決において、このリーダーとしての資質の差が明暗を分けることになった。
袁紹と曹操の決戦の前哨戦になったのは、建安五年二月から五月にかけての白馬(河南省滑県)における戦いだった。この白馬の戦いで、曹操軍は苦戦を強いられたが、このとき関羽は獅子奮迅の戦いぶりを示して、袁紹軍の猛将顔良を斬殺、これによって戦局は一気に曹操軍優勢に傾く。関羽はこの手柄をよくしてくれた曹操への置き土産として、劉備の妻子ともども、袁紹に身を寄せている劉備のもとへ旅立って行った。関羽の毅然たる態度に打たれた曹操は、追撃しようとする部下を、「主君のための行為だ。追ってはならぬ」と制止し、理不尽なとめだてはしなかった。曹操はほんとうに関羽が好きだったのだ。
白馬の戦いのあと、曹操軍と袁紹軍は官渡(河南省中牟県の東北)で対決した。戦いは膠着状態となり軍糧も底をついたため、さすがの曹操も弱気になり、撤退しようかと考えて、許で留守を預かる荀彧に手紙で相談した。しかし、荀彧にいまこそ天下分け目の戦いだ、引いてはならぬとハッパをかけられ、思いとどまるという一幕もあった。こうして百日余りの持久戦のはてに、 ついに戦いの突破口が開かれた。袁紹の参謀許攸が袁紹と不仲になって寝返り、曹操に投降して来て、袁紹軍の軍事機密を暴露したのである。許攸の情報を得た曹操は五千の精鋭部隊を率いて、袁紹の将淳于瓊らが指揮する軍糧輸送部隊に突撃をかけ、壊滅させた。この奇襲戦法が功を奏して、袁紹軍の主力部将の張郃(後年、彼もまた曹操軍有数の名将となる)を始め投降者が続出、袁紹軍は総崩れとなり、袁紹は辛うじて戦場から脱出し根拠地の鄴(河北省臨漳県の西南)に逃げ帰った。時に建安五年冬十月のことである。
この官渡の戦いの大勝利によって、曹操は名実ともに華北の覇者となった。ニ年後、袁紹は失意のうちに病死し、お家騒動によって内部分裂を来し弱体化した袁氏一族の残党は、曹操に追いつめられ、鳥丸族の支配領域である遼東半島まで逃げのびたが、建安十二年(ニ〇七)、曹操の圧力によって全滅した。曹操は七年もの歳月をかけて、袁氏一族を追跡しながら遠征を続行し、華北のみならず、はるか遼東半島の果てまで北中国を完全に制覇したのである。
さて劉備である。劉備は官渡の戦いの直前、袁紹のもとを離れて汝南(河南省中部)に移動し、曹操の根拠地許の後方を撹乱しながら袁紹を援護した。もっとも、天下分け目の官渡の戦いに先立って前線を離脱したところを見ると、曹操の底力を熟知していた劉備は、袁紹の敗北を予感し、いちはやく身をかわしたとも考えられる。
袁紹の敗北後も、劉備はしばらく汝南に駐屯していたが、建安六年(ニ〇一)、袁紹の根拠地冀州に出撃するに先立ち、憎い劉備を征伐し後顧の憂いを断とうとする曹操の攻撃をうけて敗北した。かくして身のおきどころがなくなった劉備は、立ち戻った関羽、あいかわらず意気さかんな張飛をはじめとする一族郎党を引き連れて南下、荊州の劉表のもとへと落ちのびて行った。劉備は公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹と群雄の間をきわどく渡り歩きながら、自己権力の権立をめざしたけれども、けっきょく曹操の手に帰した華北からはじき出されてしまった。考えてみれば、黄巾の乱のさい故郷の涿県で旗あげして以来、ニ十右余年の歳月の経過とともに、劉備は南へ南へと移動し、とうとう荊州まで流れて行ったことになる。華北から北中国全域を支配するにいたった曹操と比べ、あまりに惨めな軌跡ではある。荊州に流れ着いた劉備ははたして八方ふさがりの状況を打破し、敗北の淵から再生できるのだろうか。ちなみに、江東の小覇王と異名をとった孫策は、曹操が官渡で袁紹と対戦している隙をついて、乾坤一擲、許を急襲しようとした矢先、不運にも刺客に襲われて重傷を負い、これがもとで死亡した。後を継いだ弟の孫権(一八ニ~二五ニ)は着実な持ち味を生かして、劉備が荊州に身を寄せたころ、兄孫策の築いた江東の地盤を固めつつあった。北中国の覇者曹操と南中国の劉備孫権。舞台は北から南へと移り、この三者の絡み合いが次の時代の焦点となる。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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