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劉備主従荊州  2008年09月06日(土)更新

劉備主従荊州
【和:そうそうかほくとういつ
【中:Liu bei zhu cong jing zhou
秦・漢・三国|>劉備主従荊州

  建安六年(ニ〇一)秋、曹操の追撃を辛うじて振りきった劉備主従は、ほうほうのていで荊州に逃げ込み、劉表のもとに身を寄せた。劉表はそんな劉備を丁重に迎え、兵員を増し与えて、荊州北部の新野(河南省新野県)に駐屯させた。こうして表面的には丁重な扱いを受けたものの、その実、劉備の荊州生活はけっして充実したものではなく、数年間、鳴かず飛ばずの日が続く。
ある日、劉表の催す宴会に呼ばれた劉備は、厠に立ったおり、足の髀に肉が付いているのに気がつき、 ハラハラと落涙した。やがて宴席にもどった劉備のようすに、不審を感じた劉表は、どうしたのかとたずねた。劉備は答えた。「私はつねに馬の鞍から離れませんでしたので、髀の肉はみな落ちておりました。いまはもう馬に乗ることもないので、髀に肉が付いてきました。月日はたちまち過ぎ、老年も近くなりましたのに、なんの功業も立てておりません。それで悲しんでいるのです」。世に言う「髀肉の嘆」である。このとき劉備はすでに四十代なかばにさしかかっていた。これは、彼に活躍の機会を与えず、むざむざ飼い殺しにしようとする劉表に対する、婉曲な抗議にほかならなかった。
劉表は、もともと「八俊」と呼ばれた後漢末の名士グループの一人だった。彼は、董卓の乱をかわきりに華北が動乱状態になる直前、荊州刺史に任命され、以来、荊州を支配しつづけた。荊州は、南北交通の要衝に位置しながら、比較的平穏な状態がつづいたため、戦乱の華北を逃れ、この地に身を寄せる者も多かった。しかし、劉表は「表向きは寛大だが、内心は猜疑心が強い」(正史『三国志』の著者陳寿の言葉)人物で、自分のもとに集まった人材を生かす器量がなかった。
劉表のこうした性格的欠点は、荊州土着豪族のうち、劉備に心を寄せる者が増えてくると、たちまち露わになった。脅威を感じ猜疑心を募らせた劉表は、あろうことか、配下の部将に命じ劉備を殺させようとしたことさえある。襄陽(胡北省襄樊市)の劉表の本城で催された酒宴の最中、劉備は不穏な動きを察知し、厠へ行くと偽って、そのまま逃走した。愛馬の的盧に飛び乗り疾走したまではよかったが、途中、襄陽城の西にある檀渓の深みにはまり、身動きがとれなくなってしまう。劉備が、「的盧よ、今日は厄日だ。がんばれ」とはげますと、なんと的盧は三丈(約七メートル)も躍りあがり、首尾よく檀渓を渡りきることができたのだった。
的盧は元来、額の白い斑点が口の部分まで流れている馬を指し、持ち主に不運をもたらす「凶馬」だとされる。劉備の愛馬の的盧はそんな定説にさからい、主人の運命をプラスの方向に逆転させる幸運の使者となったわけだ。
的盧が凶馬の宿命を乗り越えたのと、軌を一にするかのように、闇のなかを手探りしていた劉備の行く手にも、まもなく曙光が射しはじめる。荊州の逸材諸葛亮あざな孔明(一八一~二三四)との出会いである。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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