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三顧之礼  2008年09月06日(土)更新

三顧之礼
【和:さんこのれい
【中:San gu zhi li
秦・漢・三国|>三顧之礼

  諸葛亮は、琅邪郡陽都県(山東省沂南県)の出身。その家系は前漢の司隷校尉(警視総監)諸葛豊から、連綿とつらなる名門であった。幼くして父を失った諸葛亮は弟の諸葛均とともに、初平四年(一九二)、豫章太守(江西省市昌市を中心とする地域の長官)となった叔父の諸葛玄について、江南にわたった。ちょうど父を殺された曹操が、琅邪をも含めた徐州の支配者陶謙に、凄惨な報復戦を仕掛けたころである。諸葛玄の江南移住は、戦乱を通ける意味もあったのだろう。このとき、諸葛亮の長兄諸葛謹だけは別行動をとって呉に赴き、兄孫策のあとを継いだ孫権に仕えた。後の話だが、謹厳な諸葛謹は孫権の信頼厚く、呉の大将軍となる。
豫章に赴任した諸葛玄は、残念ながらすぐお役御免となり、やむなく甥たちを連れて荊州に移り、旧知の劉表に身を寄せた。以来十数年、諸葛亮は叔父の死後も荊州にとどまり、襄陽郊外の隆中の丘に隠棲して、晴耕雨読の日々を送った。そのころ諸葛亮はよく「梁父吟」を歌っていた。「梁父吟」は隠者のうたう歌だが、もともとは諸葛亮の故郷琅邪のあたりに伝わる、古い挽歌だったという。前漢の名臣の末裔たる諸葛亮は、前後あわせて四百年続いた漢王朝の滅亡をまのあたりにし、過ぎゆく時代に挽歌を捧げていたのだろうか。
といっても、諸葛亮はけっして隠者として自足していたわけではない。気のおけない友人と語り合うとき、彼はいつも自分を管仲(春秋五覇の一人である斉の桓公の名宰相)や楽毅(戦国時代の燕の名将)になぞらえたという。自負心の強い野心家の面もあったのだ。当初、無名の若者のこんな大言壮語を本気にする人はなかったが、親友の崔州平と徐庶だけは、そのとおりだと認めていた。
政治家として軍事家として、豊かな可能性を秘めた諸葛亮の存在は、やがて広く荊州人士の知るところとなり、「臥龍(寝そべっている龍)」と称されるようになった。諸葛亮は身長八尺(約一八四センチ)の堂々たる偉丈夫であった。中国人は古来、風貌を重んずる癖がある。諸葛亮のいかにも大物然とした容姿は、人の耳目をひきつけ、いやがうえにも評判が高まったのだろう。
そんな諸葛亮を見込んで、荊州土着豪族の黄承彦は、娘との縁組を申し出た。「うちの娘は赤毛で色が黒く、みっともないけれど、才知のほうは君とお似合いだ」との但し書き付きだったが、諸葛亮は即座に承諾、縁談は首尾よくまとまった。ただ親も自認するほどだから、黄承彦の娘の醜さはつとに有名であった。このため、おもしろがった世間の人は、「真似てならぬは、孔明の嫁えらび。承彦さんの醜い娘をもらうがオチ」と、歌いはやしたという。黄承彦の娘はなるほど醜かったが、頭のきれること抜群、諸葛亮との夫婦仲は非常によかった。さらにまた、この結婚は諸葛亮にとって、よき伴侶を得たにとどまらず、実はもう一つ大きな意味があった。諸葛克は姻戚によって、荊州土着豪族と結びつき、強力なバックを得ることになったのである。
劉備に、この荊州の「臥龍」、諸葛亮の存在を教えたのは、諸葛亮の親友徐庶だった。新野に駐屯していた劉備のもとを訪れた徐庶は、劉表のこわもての居候のまま、なす術もなく日をすごす劉備に、諸葛亮との会見を勧めた。ただし、諸葛亮はなんといっても「臥龍」だから、劉備自身が会いに行くしかなく、けっして無理に連れてくることはできないと、徐庶は念をおした。
この話を聞いた劉備は、さっそく隆中の丘に住む諸葛亮を訪問した。から戻りすること二度、三度目でようやく諸葛亮との会見がかなった。いわゆる「三顧の礼」でぁる。羅貫中の『三国志演義』第二十七回から第二十八回は、劉備の諸葛亮訪問のくだりを、おもしろおかしく誇張して描く。このとき、劉備の義兄弟の関羽・張飛もついて来たが、諸葛亮不在のため、二度もから戻りさせられ、血の気の多い張飛はいいかげん頭にきていた。三度目、ようやく諸葛亮は在宅していたものの、劉備を待たせたまま昼寝をして、なかなか起きてこない。完全に逆上した張飛はついにどなる。「なんという微慢なやつだ。うちの哥哥(兄貴)を外に立たせたまま、高枕でタヌキ寝入りしていやがる。裏にまわって火をつけてやるから、おぼえてろ」。関羽になだめられてやっと思いとどまったものの、張飛の腹の虫はおさまらなかった。
これはフィクションだが、劉備が三顧の礼をもって、諸葛亮に会見を求めたのは事実である。なぜ、劉備はそんなにまでして、諸葛亮との会見を願ったのか。劉備は群雄の一人として転変を重ね、けっきょく曹操によって華北からはじきだされた。その後も劉表の居候として不過をかこつばかりで、現状打破の糸口も見いだせない。並はずれた英雄性をもちながら、劉備が挫折と試行錯誤を繰り返すはめになったのは、彼のためにグローバルな視点から戦略を立て、その英雄性を生かしてくれるブレーンがいなかったからだ。
劉備の周囲には、確かに義兄弟の関羽・張飛、さらには趙雲など、とびきりの豪傑な子龍は、な子龍は、最初、劉備の友人公孫瓚の配下だったが、たまたま出会った劉備に心酔し建安四年(一九九)、公孫瓚が袁紹に滅ぼされると、ただちに劉備の部将になったという経歴をもつ。こうして豪傑の数はそろっていたものの、知的なブレーンが決定的に欠けていた。そのことを誰よりも痛切に自覚していたのは、劉備自身だった。諸葛亮こそその人だ。劉備が真剣になって、諸葛亮との会見を求めつづけたのも道理である。
一方、諸葛亮もまた劉備の三顧の礼に深く感動した。会見の席上、劉備は今後、自分はいかなる道を進むべきかと単刀直入にたずねた。時に建安十二年(ニ〇七)、劉備四十七歳、諸葛亮はわずか二十七歳の青年だった。二十も年上の劉備が、かくも真剣かつ率直に自分の意見に耳を傾けようとしている。感激した諸葛亮は、滔滔と持論の「天下三分の計」を語りはじめた。
「いま曹操はすでに百万の軍勢を擁し、天子の後見人として諸侯に命令を発しており、これは対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を支配し、すでに父の孫堅・兄の孫策いらい三代を経ており、これは味方とすべきで、敵対してはならない相手です。この荊州は東西南北に通じる天下の要衝であり、武力を用いるべき土地でありますのに、現在の支配者劉表はとても支えきれません。これこそ天が将軍(劉備)に与えた土地だと申せますが、将軍には受け取る意志がおありですか。また益州(蜀)は地勢険固なうえ豊かで、天の庫というべき土地であり、前漢の高祖はここに依拠して皇帝となりました。現在の支配者劉璋は暗愚な人物で、蜀の人々は彼に代わる名君を待望しております。将軍は漢王朝のお血筋であり、その信義は天下に鳴り響いておいでです。いま荊州と益州を支配され、孫権と同盟を結んで力を蓄え、華北へ進撃する機会をうかがわれたならば、天下統一も夢ではありません」劉備が自己権力を確保するためには、現在の支配者が弱体な荊州と益州を奪取し、江東(呉)の孫権と同盟関係を維持して、北中国を制覇し強大な勢力をもつ曹操と対抗するしかない。この諸葛亮の天下三分の計は、南中国の東半分を孫権が、西半分を劉備が領有し、この両者が同盟して、北中国の支配者曹操に対抗するというものである。なるほどこれは、正確な現状把握にもとづいて組み立てられた、説得力のあるプランニングにほかならなかった。
自分の進むべき道をかくも明快に提示され、目からウロヨが落ちた劉備は、諸葛亮の出馬を懇請した。諸葛亮もまた自分の机上の夢を現実化してくれるパートナーは、劉備のほかないと思い決して、隠者暮らしに別れを告げ、ついに劉備の軍師となった。親子ほど年のちがう劉備と諸葛亮の、ピッタリ息の合った二人三脚は、こうして始まったのである。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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