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劉備政権成立  2008年09月09日(火)更新

劉備政権成立
【和:りゅうびせいけんせいりつ
【中:Liu bei zhen quan cheng li
秦・漢・三国|>劉備政権成立

 劉備は降伏した劉璋の身柄を荊州の公安に移す手筈をととのえ、 ついに成都に入城、宿願を果たして蜀の支配者となった。呉とのイザコザが絶えない荊州と異なり、いまや蜀はまるごと劉備のものである。黄巾の乱討伐のために、義兄弟の関羽,張飛とともに故郷の涿県で旗あげしてから三十年、またとない軍師諸葛亮の天下三分の計に導かれて、とうとう劉備は、地勢険固にして物産豊かな蜀を不動の根拠地とすることができた。ときに劉備五十四歳。
めでたく蜀の支配権を手にしたものの、最初はテンヤワンヤの大騒動だった。まして劉備は成都を包囲中に士気を高めるべく、「事が成就すれば、蔵のなかの品物はすべて君たちの思いどおりにするがいい」と兵士たちに宣言していた。このため成都が陥落すると、劉備軍の兵士は我さきに蔵に駆けつけて、争って宝物を奪い取ったので、たちまち蔵のなかはカラッポになってしまった。この騒ぎは、劉璋の旧臣劉巴の進言により、貨幣を急造し品物を買い取ることで、ようやく収まった。さらにまた、蜀攻略に功績のあった部将に、成都の建物や城外の土地を分与すべきだとの意見も、当時さかんに取り沙汰された。これについては、硬骨漢の趙雲が、「蜀の人々は戦禍にあったばかりですから、彼らに返還するのが筋です」と敢然と正論を吐き、劉備もただちにこれを聞き入れたため、征服者の欲望むきだしの醜態をさらさずにすんだ。
じっさい戦勝気分に酔いしれ、兵士や部将に大盤振舞いするどころではなかったのだ。武力制圧した蜀を今後いかに治め、劉備政権の基盤をいかに固めていくか、それが急務であった。劉備はまず、諸葛亮を輔佐役に、蜀攻略の功労者法正を総参謀に任じ、軍事面では関羽・張飛・馬超をトップに据えたあと、劉璋の旧臣の董和・黄権・李厳・劉巴らをも重任に起用、政権の中枢に取り込んだ。にわか作りの劉備政権は圧倒的に人材不足だったし、また、外来者が征服した土地を治めるには、その土地の人材を利用するのがいちばんだったのだ。 これら劉璋の旧臣のうち、黄権は、最初から劉備を蜀に入れることに猛反対し、最終的に劉璋降伏の情報を確認するまで、自らの部署を死守した反骨の人物である。また、劉巴は、建安十三年、曹操が荊州に進撃して劉備を撃破したさい、自ら好んで曹操の傘下に入り、赤壁の戦いに敗れた曹操が荊州から撤退、かわって劉備が荊州を支配すると、逃亡して蜀に入り劉璋に仕えたという経歴をもつ。いわば劉巴は一貫して、劉備に敵対的な行動をとりつづけてきたのである。しかし、劉備は過去を水に流し、降伏してきた彼を重要なポストにつけた。劉備の心意気に感じた劉巴は、先述したように、成都陥落後、略奪を公認された兵士の分捕り合戦で、物資が払底したとき、貨幣の鋳造を進言して混乱を収束させたのをはじめ、以後、誠心誠意、劉備政権確立のために尽力したのだった。
こうして筋金入りの頑固者から積年の敵対者まで、さまざまな異分子を抱え込んでスタートした劉備政権の、実質的な行政責任者は、いうまでもなく諸葛亮であった。ここで、彼は劉備の信頼にこたえ、行政家としての辣腕を存分に発揮する。諸葛亮は、もともと法律と刑罰を重視する「法家」的な傾向が強いとされる。劉備政権の基盤固めに彼が用いた方法は、まさしくそうだった。諸葛亮はまず、旧政権の無責任体制を一新、徹底した合理主義による法治政策をとり、法律に達反した者をびしびし取り締まった。そのあまりのきびしさに、当初、官吏も住民も音をあげ、怨みを抱く者が続出したが、諸葛亮はがんとして手をゆるめなかった。この諸葛亮のショック療法が功を奏し、蜀の国内情勢はみるみるうちに引き締まっていったのである。
におられたとき、北は曹操の強大きに脅え、東は孫権の圧迫に遠慮し、身辺では孫夫人がなにか変事をおこすのではないかと、心配しておられた。こんな八方ふさがりの状態にあったとき、法正は殿を輔佐してヒラヒラと空高く舞いあがらせ、二度と他人の制約を受けずにすむようにしてくれたのだ。どうしてその法正に思いのままによるまうな、などといえよう」。諸葛亮は法家の厳格さを主軸としながら、こうして法正の逸脱行為を大目にみた例から明らかなように、あくまでケース・バイ・ケースの柔軟さを失わなかったのだ。
また、すぐれた行政センスの持ち主である諸葛亮は、劉璋の有能な旧臣を適材通所に配置し、その力を存分に発揮させることにつとめた。この結果、単に法律と刑罰によってがんじがらめに押さえ込むのではなく、短期間のうちに蜀の人々の心からの信頼と敬愛を獲得し、劉備政権の基盤を揺るぎないものとしえたのだった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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