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荊州分割 2008年09月10日(水)更新
【和:けいしゅうぶんかつ】 |
【中:Jing zhou fen guo】 |
秦・漢・三国|>荊州分割 |
建安二十年(215)、劉備が蜀を支配したことに焦燥を感じた呉の孫権は、諸葛亮の兄諸葛謹を使者として派遣し、蜀を領有した以上は、貸与した荊州を返還してもらいたいと、劉備に要求してくる。しかし、劉備は「涼州(甘粛省)を手に入れたら、お返ししましょう」などと、逃げ口上を重ねるばかりで、いっこうに埒があかない。
いらだった孫権は実力行使におよび、荊州南部の長沙・零陵・柱陽の三郡に太守を送りこむが、たちまち劉備側の荊州軍総責任者の関羽に追いはらわれてしまう。激怒した孫権は、知謀あふれる呉軍のホープ呂蒙に二万の軍勢を率いて三郡を攻略させるんばりに賛辞をおくりながら、
ついに撤退したのだった。いま、曹操は大軍勢を率いて漢中に駐屯しているのだから、曹操の江南攻撃の軍事拠点合肥の守備が手薄なのは、自明の理だ。劉備の講和妥協案を受け入れた孫権は、ただちに陸口の陣地を引き払い、十万の軍勢を率いて一路、北東に向かい合肥を急襲した。建安二十年八月のことである。 、
当時、合肥に駐屯していたのは、曹操軍団のなかでも百戦錬磨の猛将として知られる張遼・李典・楽進だった。ただし、主力がこぞって漢中に出撃していたため、彼らの率いる軍勢は七千にすぎなかった。十万の孫権軍に、とてもまともに対抗できる兵力ではない。だが奇跡がおこる。危機に強い張遼がわずか八百人の突撃隊を率いて、孫権十万の大軍を撃破、孫権をあわやというところまで追いつめるという、目の醒めるような奮戦ぶりを示したのだ。合肥陥落の夢もろくも破れた孫権は、敗軍を率いながらほうほうのていで呉に逃げ帰った。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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