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夷陵之戦  2008年09月11日(木)更新

夷陵之戦
【和:いりょうのたたかい
【中:Yi ling zhi zhan
秦・漢・三国|>夷陵之戦

  明けて建安二十五年(220)正月、曹操は洛陽でにわかに重態となり死去した。ときに六十六歳。関羽におくれることわずか一か月である。黄巾討伐いらい三十余年、北中国を制覇したのちも、曹操は広大な中国大陸を縦横無尽に馳せめぐり、飽くことなく戦いつづけた。その間、赤壁の戦いに惨敗を喫したり、馬超に追いつめられたり、あるいは劉備との漢中争奪戦に敗れたり、姦雄らしからぬ大ポカを何度も繰り返した。曹操は勝ちっよりも豪快なら、負けっぷりも鮮やかなのだ。劉備はかつて劉表の居候時代、「脾肉の嘆」を発したけれども、曹操とて同じこと。彼もまた鬨の声がどよめき矢の雨がよる戦場の昂揚感を、かたときも忘れることができなかった。むろん関羽もそうだ。曹操も劉備も関羽もまぎれもなく、血のさわぎに身をゆだねる乱世の男だっ乱世の英雄曹操は、着々と帝位纂奪のプログラムをおし進めながら、どうしても最後のステップを踏みきることができず、 ついに皇帝となることなく死んだ。しかし、後継者となった息子の曹丕はいたってクールであり、そんな父の屈折や逡巡とはまるで無縁だった。曹操の死からわずか九か月後の建安二十五年十月、曹丕ほ後漢の献帝から形式的な禅譲をうけて帝位につき、魏王朝を創設、黄初と改元し、洛陽を首都とする。電光石火の早業による、魏の文帝の誕生である。文帝曹丕は即位後、父曹操に魏の初代皇帝武帝の尊号を追贈したのだった。
翌黄初二年(221)、即位した曹丕が後漢の献帝を殺害したとの誤報が蜀に入り、これをしおに、臣下の懇請を受け入れるという形式で、同年四月、劉備も即位し蜀王朝を創設、蜀固有の年号を建て、諸葛亮を文武両面を総括する丞相の地位につける。漢王朝の末裔と称する劉備と異なり、独自の王朝を立てる口実に欠ける孫権は、この年ひとまず魏王朝の臣下となって曹丕から呉王に封じられ,八年後ようやく独自に呉王朝を立てた。ただし、孫権も翌黄初三年(222)から呉に固有の年号を建てており、劉備即位の時点から、実質的には魏・蜀・呉の三国分立時代がはじまったといえよう。
曲がりなりにも一国の皇帝になったものの、劉備の心は晴れなかった。生死をともにと誓った義兄弟の関羽を殺した孫権が、なんとしても憎い。劉備はついに兵出撃の決意を固める。このとき、蜀の重臣はこぞって反対し、ことに、言いたくいことをはっきり言う趙雲は、「敵は曹操であって孫権ではありません。さきに魏を滅ぼせば、孫権は自ずと服従します。いま曹操は死んだとはいえ、息子の曹丕が纂奪をはたらいております。人々の心に沿って、はやく関中を手中に収め、逆賊曹丕を討つべきです」と、正面きって諌めたけれども、はやる劉備はまったく受けつけなかった。こんなとき、 いつも能弁によって巧みに劉備を説き伏せた。蜀攻略の功労者法正はこの直前にすでに死去しており、もはや劉備を抑えることのできる者はいないっあとの話になるが、劉備が呉への出撃に失敗したとき、諸葛亮は、法正が生きていれば、こんなことにはならずにすんだと、 つくづく残念がったという。
重巨の反対をなんとか押し切り、いよいよ出陣というときになって、また劉備を悲嘆のどん底に落とす情報が飛び込んでくる。関羽の復讐を期し、劉備とともに共に出撃する日を指折り教えて待っていた、もう一人の義兄弟の張飛が泥酔中、怨みをもった部下に暗殺されたのである。当時、巴西の閬中に駐屯していた張飛は、南下して江州(四川省重慶市)に至り、成都から来る劉備の軍勢と合流する段取りになっていた。事件がおこったのは、まさにその江州への出発前夜であった。もともと張飛は君子(身分の高い人)は敬愛するが、小人(身分の低い者)は苛酷に扱うという悪癖があった。これでは部下の怨みを買うと、かねがね劉備がきつく注意していたにもかかわらず、大事をまえにして、その危倶が現実のものとなってしまったのだ。張飛の陣営から急の使いが来たと聞いた瞬間、劉備は思わず言った。「ああ張飛が死んだ」。張飛はがさつで教養もないけれども、腕っぷしもとびっきりなら、劉備にかける思いの強さも頗るつきだった。関羽につづいて、張飛にまで死なれ、劉備の持ちも提げもならない孤独は深まるばかりであった。
建安二十四年末の関羽の死をかわきりとして、わずか一、二年の間に、『三国志』世界第一世代の英雄や豪傑の多くが、あいついで死んでいった。魏では曹操、夏侯惇、張遼。呉の呂蒙(彼は第二世代だが)。そして蜀では、法正が死に、老いの花を咲かせた黄忠が死に、とうとう張飛まで死んでしまったのだ。
黄初二年七月、劉備はポッカリあいた心の空洞を、はげしい戦闘の興奮で埋めようとするかのように、 いまや呉の支配下にある東のかた、荊州に向け出撃を開始した。孫権はあわてて諸葛亮の兄諸葛理を派遣し和睦を申し入れたが、不退転の決意を固めた劉備はまったく取り合わなかった。
翌八月、劉備との対決が避けられないと見た孫権は、態度を一変させ、魏の曹丕もとに使者を送って臣下の礼をとり、魏との友好関係を強めた。こうして魏と連携すれば、後顧の憂いなく劉備との戦いに専念できるという計算である。孫権が曹丕により呉王に封じられたのは、このときだった。このいきさつから、劉備が蜀を領有して以来、魏と蜀の間にあってバランスをとり、臨機応変、いずれとでも手を結んで、有利な立場を確保しようとした孫権の戦略が如実にうかがえる。孫権が辞を低くして魏と結んだことは、いっそう劉備の怒りに火をそそいだ。彼は破竹の勢いで荊州に攻め込み、たちまち国境の巫(四川省巫山県)から秭帰(湖北省秭帰県)へと勝ち進んだ。この劉備の呉出撃には、暗殺された張飛はむろんのこと、馬超(劉備の呉出撃の翌年の黄初三年死去)や越雲など一騎当千の主力部将はまったく加わっていない。諸葛亮はいうまでもなく成都で留守を守る役割だ。蜀攻略戦のケースと同様、根拠地を近く離れた戦いの危険度の高さを配慮した措置である。まして今回は蜀攻略のとき大活躍した軍師の龐統も参謀の法正もいないのだから、なおさら前途の多難が思いやられた。
しかし、当初、怒りをこめて進撃する劉備の勢いには、当たるべからざるものがあり、これに対抗して孫権は、呂蒙の死後もっとも信頼する陸遜を総司令官に抜擢、五万の軍勢を率いて劉備に当たらせた。陸遜は呉の有力な土着豪族の出身で、孫権の兄孫策の娘をめとった毛並みのいい人物だった。彼は関羽攻撃のさいにも、呂蒙の立てた計に協力、その判断力のよさを示したけれども、なにぶんまだ若く、大軍を指揮して戦った経験もない。このため、呉軍のベテラン部将は陸遜を見くびり、最初はなかなか彼の指揮に従おうとしなかった。しかし、陸遜は粘り強く彼らを説得して無抵抗作戦をとり、ひたすら劉備の出方をうかがった。
かくして数か月、劉備は陸遜の作戦に乗せられて深く荊州に入りこみ、長江沿いにさらに東へ東へと進攻をかさねた。そのあげく、巫峡から秭帰を経過し夷陵(湖北省宜昌市)に至る約三百キロの地に、各々たがいに連なりあう陣常の群れを作って、数十の軍団を駐屯させ、劉備自身は秭帰に陣を敷いた。年がかわって黄初三年(二二二)ニ月、劉備は黄権の反対を押しきって、秭帰からさらに東進、長江の南岸に位置する夷道の猇亭(湖北省宜都県)に陣を移す。同時に、黄権は別働隊を卒いて長江の北岸に沿って移動、猇亭の北に位置する夷陵に駐屯した。こうしてまた呉軍と対峙すること数か月、遠来の劉備軍に疲労の色が濃くなったころ、ひたすら隠忍自重し、戦力を温存してきた陸遜率いる呉軍の全両攻撃が開始された。陸遜の主たる戦法は、長々と連ねられた劉備軍の陣営に火攻めをかけるというものだった。火炎にあぶられながら、呉軍の猛攻をうけた劉備軍はたちまち総崩れとなり、戦死者数万にのぼる壊滅的打撃を受けた。劉備の呉出撃からほぼ一年後のことだった。それにしても、周瑜・魯粛・呂蒙そして陸遜と、切れ目なく有能な軍事責任者に支えられたことは、孫権ひいては呉にとってまたとない幸運にほかならなかった。
惨憺たる大敗北を喫した劉備は、手勢を率い西へ向かって必死に逃走し、ようやく蜀境の白帝城(永安。四川省奉節県)に逃げ込み、命びろいをした。このとき長江の北岸に駐屯していた黄権は逃げ場を失い、二か月後、軍勢を率いて魏に降伏した。これにより、反逆罪の累をこうむり、蜀に残された黄権の家族が逮捕されそうになったとき、劉備は、「黄権が私に背いたのではない。私が黄権に背いたのだ」と弁護して、黄権の家族を丁重に保護した。かたや、黄権も刀折れ矢尽きて魏にくだったのち、蜀に残された家族が処刑されたとの誤報が伝えられたとき、「私は劉備・諸葛亮と心から信頼しあった仲であり、彼らは私の本当の気持を理解しています。そんな噂はデマにきまっています」と、まったく問題にしなかった。黄権は、かつて劉備の蜀支配にあくまで抵抗した人物である。その黄権にここまで信頼されたところを見ると、劉備政権が旧政権の影を払拭し、完全に蜀の人士の心をつかんでいたことがわかる。
蜀政権がこれほど順調に成長していたにもかかわらず、劉備は関羽のために復讐を果たしたいという一念に衝き動かされ、大失敗をしてしまった。再起不能のダメージをうけた劉備は部下に顔向けができず、白帝城にひっそりと滞在しつづけるうち、病魔に冒されてゆく。皇帝としておさまりかえることよりも、長年、苦労をともにした義兄弟のための復讐を選んだ劉備は、根本的にやはり「任俠の論理」に生きる情の人だった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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