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赤壁之戦-赤壁の戦い 2008年09月07日(日)更新
【和:せきへきのせん】 |
【中:Chi bi zhi zhan】 |
秦・漢・三国|>赤壁之戦 |
赤壁之戦:魯粛と周瑜のあざやかな連携プレーが功を奏し、曹操との決戦に踏みきった孫権は、建安十三年十二月、周瑜および父孫堅以来の宿将程普を左右の督(司令官)に任じ、おのおの一万の軍勢を与えて柴桑から出撃させた。賛軍校尉に任命された魯粛と客分の諸葛亮も、むろんこれに同行した。
樊口に留まっていた劉備は、諸葛亮は孫権との会見に出かけたまま戻らず、曹操の軍勢は日に日に迫るため、毎日、長江の岸辺に伝令をやってようすを見させ、呉の船団の到来を今や遅しと待ち構えていた。ようやく周瑜の乗った船が見えたとの知らせをうけ、喜んだ劉備はさっそく使者を派遣して、周瑜に挨拶させた。これに対する周瑜の反応は、「軍務があり持ち場を離れることはできません。どうかそちらの方からお越しください」と、いたって素っ気ないものだった。
やむなく劉備は一般の船に乗り込み、自ら周瑜のもとを訪れた。会談のおり、呉軍が総勢わずか三万(実際は二万)にすぎないと知った劉備は、「少なすぎますな」と思わず懸念を表明した。むっとした周瑜は、「これで十分です。豫州殿は私が曹操をやっつけるのを、ただごらんになっていればよろしい」と言い返した。さらに彼は、魯粛と諸葛亮をこの場に呼んで語り合いたいという劉備の要求も、勝手に持ち場を離れることは許されないと、にべもなくはねつけたのだった。
劉備や諸葛亮に最初から共感した魯粛とは異なり、周瑜は彼らにゆだんのならないものを感じ、不信感をつのらせ警戒を強めたとおぼしい。劉備のほうも、周瑜はまれに見る傑物にはちがいないが、まさがこれしきの軍勢で曹操を撃破できるとは、とうてい考えられなかった。このため周瑜と会見したあとも、関羽・張飛を従え、二千の手勢を率いたまま動かず、戦局の行方を傍観する態度をとりつづけた。つまるところ、劉備と孫権が同盟して曹操にあたったとはいえ、実際に曹操軍と渡り合ったのは、周瑜の率いる呉軍のみだったのである。
周瑜は船団を率いて、さらに長江をさかのぼり、赤壁(湖北省嘉魚県)まで来たところで、 ついに曹操軍と遭遇した。曹操は刺州の軍事拠点江陵で万全の装備を整え、水陸合わせ八十万の大軍勢をもって、長江を攻めくだって来たのだ。小手調べの緒戦は、呉軍の勝利に帰した。周瑜が看破したとおり、南方の気候に不慣れな曹操軍の兵士の間に、すでに疫病が蔓延し、戦力が低下しはじめていたこと。また、曹操の水軍の主力は、水に慣れているとの理由で、降伏したばかりの荊州勢であり、必ずしも戦意が高くはなかったこと。これらが、緒戦における曹操軍の敗因にほかならなかった。
これではならじと、曹操はやや退却して長江の北岸に陣を敷き、態勢を立て直した。これに対して、周瑜は長江の南岸に布陣、両軍は長江をはさんで対峙する形勢となった。緒戦でつまずいたとはいえ、曹操軍はおびただしい軍艦を並べて鉄壁の陣立てを誇り、呉軍に付け入る隙を与えない。かくして戦いは膠着状態に入る。
来るべき決戦をまえに、不気味な静寂が両軍の陣地をおおったある夜、曹操は長江に船を浮かべ、酒宴をもよおした。飲むほどに酔うほどに曹操の気持はたかぶり、即興で詩を作り、管弦に合わせて歌わせた。
酒に対して歌うべし、人生 幾何ぞ、譬えば朝露のごとし、去る日は苦だ多じ、と、歌いだされる「短歌行」である。人の命には限りがある。なればこそ、限りある生を思いきり燃焼し尽くそうではないか。曹操はほとばしる激しい感情を、強いタッチで歌いあげた。
曹操は、中国文学史上、それまで読み人知らずだった民間歌謡を、個人の作品に作りかえた最初の詩人として知られる。単なる「姦雄」として、片付けてすむような人物ではないのだ。
曹操が「槊を横たえて持を拭」し、悠々と決戦にそなえている間も、周瑜は、長引いては多勢に無勢、不利になるばかりだと、気が気でなかった。そんな周瑜のもとに、ある夜、孫堅以来の呉の宿将黄蓋が、ひそかに訪れる。
このとき、黄蓋が提案した奇襲戦法こそ、わずか二万の軍勢をもって、曹操の八十万の軍勢を撃破する、呉軍奇跡の大勝利の原動力となるものだった。黄蓋は言った。「いま敵は多勢わが軍は少数ですから、持久戦は不利です。ただ曹操の軍艦はたがいに船首と船尾を運結させておりますゆえ、焼き討ちをかければ敗走させることができます」。なるほど名案だ。しかし、どのようにして水軍の陣地に接近し、火をかけるかが問題だ。周瑜と黄蓋は密談を重ね、奇抜なアイデアを案出した。
あらかじめ密書を送って、黄蓋が降伏する旨を伝え、曹操をゆだんさせておく。それから数十艘の蒙衝(駆逐艦)と闘艦(戦艦)を準備し、なかにたき木や草を積み込み、油を注ぎ込んだあと、すっぽり幕をかぶせてカモフラージュする。別に小型の快速艇を準備し、それぞれの軍艦の船尾に繋いでおく。快速艇に乗り移り、綱を切り離した瞬間、軍艦が火を噴くという仕掛けだ。
さしも老獪な曹操も虚をつかれたのか、黄蓋の偽装降伏工作は成功した。『三国志演義』は、このくだりをフィクショナルに誇張し、周瑜と黄蓋は示し合わせて、ひと芝居打ち、降伏の信憑性を高めたとする。作戦会議あ席上、黄蓋が降伏論を唱えたところ、激怒した周瑜は、公衆の面前でこの歴戦の老将をさんざん罵倒しながら、気絶するまで打ちすえる。呉軍に潜入していたスパイから報告をうけた曹操は、 こんな目にあえば、黄蓋が降伏する気になるのも無理はないと、すんなり納得したというものである。『演義』の作者は、曹操ほど悪賢い人間が、簡単に偽装降伏なんかに引っ掛かるはずがないと、こんな手のこんだトリックを考えついたのだろう。
さて当日、黄蓋は船上に高々と、降伏の合図の牙旗(将軍の旗)をかかげながら、燃える船団を率い、長江を渡りはじめた。対岸では、曹操軍の将兵が、こぞって黄蓋の降伏だと指さしながら見物している。曹操軍の陣地から二里の地点まで接近したとき、突然、黄蓋の船団が火を噴き、矢のように曹操の水軍陣地に突っ込んだ。前後を連絡された曹操軍の軍艦は、次々に延焼するばかり。おりしも吹き出した東南の烈風に煽られ、火はたちまち曹操の陸上の陣地にまで燃えひろがる。焦熱地獄のなかを、算を乱して逃げ惑う曹操軍の将兵。曹操はここに完膚なきまでの惨敗を喫し、天下統一の野望は一瞬にして潰え去った。
呉軍大勝利の立役者黄蓋は、このとき流れ矢にあたって快速艇から落ち、水中でもがいているところを呉軍に救いあげられた。しかし、誰もまさかそれが黄蓋だとは思わず、そのまま厠に放置された。黄蓋は声をふりしぼって老戦友韓当の名を呼び、これを聞きつけた韓当の手でようやく救出され、命拾いしたのであった。
周瑜とともに呉軍の指揮をとった程普、そしてこの黄蓋・韓当は、いずれも孫権の父孫堅が黄巾の乱討伐のため旗あげした当初から、息子の孫策・孫権の時代に至るまで、終始一貫、孫氏父子に仕え、攻城野戦に明け暮れた誠実無比の老将であった。戦歴二十数年を誇る彼らベテラン老将が、はるか年下の周瑜(このとき三十四歳)の指揮のもと、そのキャリアを存分に発揮して協力したからこそ、呉軍の奇跡的な勝利があったといえよう。
、赤壁の戦いは、実質的には曹操軍と周瑜率いる呉軍の対決にほかならず、諸葛亮も劉備もほとんど出番がないのである。諸葛亮の役割は、魯粛に同道されて孫権と会見し、劉備の窮状を訴えながら、曹操との全面対決を促すことで終る。あとはただ周瑜の水ぎわだった指揮のもと、呉軍が曹操軍に勝利する経緯をまぢかで傍観するだけ。
これではあまりに曲がないと、諸葛亮びいきの『三国志演義』は、あの手この手で諸葛亮の出番をふやし、その活躍の場面を作り出す。諸葛亮を目立たせるために周瑜を道化役に貶めるというのが、その主要なコンセプトである。諸葛亮のオ能に嫉妬し警戒を強めた周瑜が、やれ矢を十万本集めて来いと言ったとか、冬にはめずらしく火攻めに絶好の東南風が吹いたのは、諸葛亮が「七星壇」を築いて天に祈ったおかげだ、とかいう調子なのだ。
「七星壇」のくだりは、『三国志演義』第四十九回「七量壇に諸葛、風を祭る」に微に入り細にわたる描写がある。火攻めの方針を決定し準備万端ととのえたものの、ただ一つ絶対必要な条件が満たされないため、思い余った周瑜は体の具合までわるくなった。そこへ諸葛亮が見舞いにやってきて、「曹公をを破らんと欲すれば、よろしく火攻めを用いるべし。万事みな備われども、ただ東風を缺く」という文字を書いてみせ、周瑜の病気の原因を看破する。まいった周瑜が諸葛亮の助力を乞うと、諸葛亮はものものしい壇を築かせ、髪をより乱し素足で壇にのぼり、天に祈った。すると、あら不思議、やがて激しい東南の風が吹き出したというものだ。
ちなみに、矢集めの方はこうだ。周瑜に矢集めを強制された諸葛亮は、魯粛に頼みこんで、草の束を積んだ二十艘の早船と三十人の兵士を用意してもらい、濃霧にまぎれて曹操軍の陣地に接近、鬨の声をあげ太鼓を鳴らして呉軍の来襲を装い、曹操軍を挑発する。慌てた曹操軍が雨アラレと射かける矢は、すべて草の束に突き刺さり、首尾よく十万本以上の矢を調達することができたというものである。
『三国志演義』が、 こうして周瑜の諸葛克亮に対する敵意を誇張するのも、まんざらいわれのないことではない。先述したように、周瑜は明らかに劉備や諸葛亮を警戒し、その動きを牽制しようとしていたのだから。そして赤壁の戦い直後、劉備主従の動きに不穏なものを感じた周瑜の予感は的中するのである。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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