考古用語辞典 A-Words

時代別順

旧石器時代
新石器時代
神話時代
殷・周時代
春秋戦国
秦・漢・三国
晋・南北朝
隋・唐・五代
宋・遼・金・元
明・清

分野別順

基本用語
青銅器
陶磁器
金銀・玉器
石器・ガラス
彫刻・書画
絹・衣類
建造物・遺跡・墓
歴史名城
歴史人物
研究機関
研究者
面白テーマ

劉備之死  2008年09月11日(木)更新

劉備之死
【和:りゅうびのし
【中:Liu bei zhi si
秦・漢・三国|>劉備之死

  陸遜の知謀に手もなく翻弄され、夷陵の戦いに敗れた十か月後の黄初四年(223)四月、劉備は白帝城で重態に陥る。臨終にあたって、劉備は枕辺につきそう諸葛亮にこう遺言した。「君のオ能は曹丕の十倍はある。きっと国家を安定させ、最後に大手を成し遂げることができるだろう。もし私の後継ぎが輔佐するに足る人物ならば、彼を補佐してやってほしい。もしもオ能がなければ、君が国を奪い取るがいい」。さすが極貧のワラジ売りから身をおこし、 ついに小なりといえども一国の皇帝となった英雄だけのことはある。こんな思いきりのいいセリフは、乱世の修羅場をかいくぐり、何度も地獄をみたひとでなければ言えないものだ。そしてまた、この言葉はまぎれもなく、諸葛亮に対する絶対的な信頼感を逆説的に言いあらわしたものにほかならない。これに対して諸葛亮は涙を流しながら、「私は心から股肱の臣として力を尽くして忠誠をささげ、最後には命を捨てる所存です」と、誓った。この誓いに背かず、諸葛亮は輔佐しがいのない愚かな劉備の長男劉禅を守りとおし、脆弱な蜀王朝を支えぬいて、死に至るまで誠実に仕えつづけた。劉備と関羽・張飛の義兄弟は任侠の情と論理によって結ばれた仲だったが、劉備と諸葛亮の結びつきにも、同質のものが認められる。知性あふれる諸葛亮とて、侠に生き侠に死ぬ乱世の男だったのである。
劉備は、成都にいる劉禅に遣言状を送り、「人間五十ともなれば若死にとは言えない。まして私はもう六十を越しているのだから、なんの思いのこすこともない。努力せよ。努力せよ」と、諄々と不肖の息子をさとした。また最期のときには、枕もとにつきそう二男の劉永に、「おまえたち兄弟は丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ」と言い聞かせながら、息をひきとったのだった。ときに劉備六十三歳。
劉備の死を区切りとして、『三国志』第一世代の主要なメンバーはこぞって退場、役者はガラリと交替して、諸葛亮を筆頭とする第二世代が、舞台の中央に登場することとなる。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

Copyright 2006 abc0120 All rights reserved.