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唐英 2010年3月30日更新
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陶政家。唐英の字は俊公、号は蝸寄といい、満州瀋陽の籍で漢軍正白旗に属した旗人である。祖父のとき入関して北京に居住していた。かれは康熙二一年(一六八二)の五月五目に生まれ、同三六年に、旗人なので一六歳で養心殿に出仕して皇帝座右の雑事を処理していた。この内廷に出仕する者は八旗の子弟に限られ、他に男といえば去勢された太監に限られていた。婦人たちが後宮に居住しているためである。宮廷には美術品が多ったが、かれによって成功したためである。雍正一三年にかれは御器廠に『事宜紀略』の碑を建立し、陶務に関する諸項を記したが、各種の釉色についてはすでに述べた如くである。題記には「雍正十三歳次乙部冬月督陶使者瀋陽唐英記」とある。文に冬月とあるので碑の実際に建てられたのは翌乾隆元年であろう。
乾隆元年(一七三六)かれは五五歳になったが、この年に江蘇省の淮安の板閘関(大運河に沿う)督理を命ぜられた。このときの留別の詩に「半野半官棲八載 誰賓誰主寄孤情 梁間燕塁分辛苦 檻外花枝負約盟」というのがあるが、よく陶工だちとの交情が厚かったことを詠じている。ここは税務の機関なので収入が多く、官窯の費用もここから支出せしめられていたのである。それで翌二年にはまた陶務を兼任して春秋の二回に御器廠を巡視し、御器廠からは毎月の初めと二六日の二回、関に使を送り見本を提出し、春秋二季に北京へ製品を送っていた。
乾隆三年には顧棟高(江蘇省無錫の人で進士となり経学として有名な人物)を幕賓として、かれの著の『陶人心語正続十九巻』の校訂を依頼した。同四年には江西省九江鈔関の督理を命ぜられ陶務を兼理せしめられた。
そして同八年には旨を奉じて『陶冶図説二十幅』を編進したが、図は内廷画家の孫祜・周鯤・丁観鵬が描き、説明は戴臨が書した。これは乾隆帝が陶磁に関心をもっていたことを示すものである。同一〇年にかれは友人の莾鵠立(満州旗人で画を巧みにし、後に甘粛省の巡撫になった)が三四歳のとき描いてくれた肖像画に自題をかいた。これはかれの青年時代に宮廷に奉仕していたときなので、そのころすでに有望な青年であったことがわかる資料である。
乾隆一三年(一七四八)六月には入覲するために北上し九月に九江に帰ったが、同一五年二月には広東のえつ海関に転任を命ぜられ、六九歳の年なるをもって子の寅保も庶常の官の待遇を与えられて随行し、八月任に到着した。そして翌一六い年月にはふたたび九江妙関の督理を命ぜられ、陶務も総理することになった。そして一七年三月に九江に到着し、一八年の「除夕即事」の詩がのこっているので、おそらく翌一九年に七三歳で歿したものと考えられている。
唐英は山水・人物画をよくし、書も巧みであった。詩文にもすぐれているので、陶磁にこれを利用した。かれがみずからかいて陶磁とした詩文の双聯のごときは当時から有名であった。詩文には『陶人心語正続
十九巻』の著がある。
また詞曲には古栢堂伝記十三種、『転天心一本二巻三十八齣・清忠譜正案一本一折・雙釘案(原名釣金亀) 一本二十六齣・巧換縁一本十二齣・三元報一本四齣・蘆花梨一木目前・梅竜鎮一本目前・和紙笑一本四齣・虞号夢一本四齣・英雄報一本一齣(改旧曲) ・女弾詞一本一齣・長生殿補闕一本二齣・十字埃一本一齣』があり、別に『笳騒一本』がある。『揚州画舫録』の巻五には、『伝奇英雄報』『戯劇長生殺補闕』『笳騒』 の三種が記載されている。
これらの戯曲は当時揚州などで上演されていたらしい。かれがいた淮安は揚州に近く、当時もっとも繁栄した揚州はまた文学者の集まっていたところなので、かれはこの地と常に往来して文学者と交款していたのであろう。またこのころの戯曲家として有名な張堅は江寧(南京)の人で音律に通じ、『玉燕堂四種』の戯曲もあり、第一人者として知られていたが、唐英はかれを幕賓として迎えている。年齢はかれとほぼ同じであった。出所:「清の官窯」
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