名称:アペルト14 原田裕規「Waiting for」金沢21世紀美術館
会期:2021年5月29日(土) 〜2021年10月10日(日)
開館時間:10:00〜18:00(金・土曜日は20:00まで) ※開催延期となりました
会場:金沢21世紀美術館 長期インスタレーションルーム
料金:無料
休場日:月曜日(ただし8月9日、9月20日は開場)、8月10日(火)、9月21日(火)
主催:金沢21世紀美術館[公益財団法人金沢芸術創造財団]
協力:株式会社Slacktide
住所:〒920-8509石川県金沢市広坂1-2-1
TEL:076-220-2800
URL:金沢21世紀美術館
原田裕規(1989年生まれ)は、クリスチャン・ラッセンや心霊写真など、ある時代の視覚文化の中では確かな位置を占めているにもかかわらず、美術史の周縁にある存在を扱ってきました。
本展は、作家にとって2年ぶりの新シリーズ「Waiting for」を含む映像インスタレーションによって構成されます。
原田は、2017年より、不用品回収業者などによって回収された引き取り手のない写真を集めはじめました。《One Million Seeings》(2019)では、作家自身が、それらを一枚一枚手に取り、見つめる様子が映し出されます。誰かによってかつて見られ、そして見放され、いずれ記憶からも歴史からも消えていくであろうイメージに対して視線を投げかける行為は、24時間にもおよびます。
一方、新作の映像作品《Waiting for》では、オープンワールドゲームの製作に用いられるCGI(Computer-generated imagery)の技術による「100万年前/後の風景」が映し出されます。完全に人工的につくられた世界には、地球に現存する全ての動物の名前を呼び続ける声が響きわたり、強い不在の感覚が呼び起こされるでしょう。
一見対照的な二作品ですが、いずれにも、膨大な情報と向き合い、それを身体化しようとする人間の姿が記録されています。こうした行為を、作家は「Waiting(待つこと/待ちながら)」という言葉で表現しています。かつてあった存在を見つめ、訪れるかもしれない何かを待つ。それは、出来事の前と後に挟まれた空白の時間に身を委ねる行為と言えます。本展は、人々が日々膨大な量の情報を手にすると同時に手放していく現代において、世界と向き合う一つの態度を示す機会となるはずです。
作家によるコメント
現代の「風景」はどんなものだろうかとずっと考えていた。伝統的な風景画は、高所から見下ろした構図で描かれることが多い。しかし今となっては、単に高所に視点を設定しただけでは、「現代」という時代を俯瞰することはできないだろう。
それでは、その視点はどこに設定されるべきだろうか。そのために試みたことが、《Waiting for》(2021)における「地球上に存在する全ての動物の朗読」と「あらゆる動物がいない光景(=100万年前/後の光景)」のビジュアライズだった。
まずはいくつもの資料をかき集めて、学会や研究機関にも確認を仰ぎながら、膨大な動物の和英俗名をリスト化する作業から始めた。なんとか完成させた2万種以上の俗名リストの朗読には、少なくとも30時間以上を要することもわかった。
それらを俯瞰するひとつの「視点」をつくるために、当初は切れ目なくノンストップで読み上げを行う必要があると考えていた。しかし実際に朗読してみると、疲労、眠気、読み間違えなどにより、朗読は何度も失敗に終わり、最終的には、20時間と10時間の2回にわけて収録した音声を作品にすることにした。
そう決断したのは、このときに人間の身体の有限性について改めて強く実感させられたからだった。この朗読では、まるでコップの水が溢れるように、多すぎる情報や身体的な負荷など、演る者にとっても観る者にとっても、常に何かが手に余る状態が続いている。この何かが溢れた状態にこそ、ちっぽけな人間には推し量ることのできない「風景」と呼ぶべき何かが立ち上がるのを実感したのだ。
それと同じ意味で、《One Million Seeings》(2019)でも常に何かが溢れている。
この作品で行った、24時間にわたり延々と写真を見続けるパフォーマンスは、体力・認知ともに人間の限界を越えるものだった。次々と現れる詳細不明の写真を見続ける作業は、イメージを人間の側に引き寄せて都合よく解釈する作業ではなく、いわば、人間の身体をイメージの側に引き寄せて新たな関係性を築こうとする作業である。
人間(=身体)ではなく、人間以外(=イメージ)の視点に立つこと。それがこのふたつの作品が共有する倫理であり、現代の風景を出現させるために必要な態度であると思う。
「Waiting for」という展覧会/作品タイトルには、人間の想像力を超えた空間的・時間的広がりに対して、作者が手綱を握ろうとするのではなく、善悪も清濁も含んだところで待ち、その有り様を最後まで見届けたいという思いを込めている。
原田裕規
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