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平原君 2008年08月22日(金)更新
(?~前251年)
食客という言葉がある。任侠の世界で、金持ちの家で何をするでもなくごろごろとしている居候のことをいう。普段はただで飯を食べているだけだが、何かのときに役に立つ(かもしれない)人々で、気持ちにも経済的にも余裕のある人が、こうした食客を家に何人も抱えていた。食客は自分を食わせてくれそうな人がいると聞けば、どこの国にも行ったので、食客が多くいることは、その人物が全中国的に有名なことを意味していた。つまり、食客の数は、人気と財力のバロメーターだった。戦国時代後期、貴族のなかに食客を何百人も抱えるものがいた。そのなかでも特に有名な四人を「戦国の四君」という。彼らは各国の王の一族や側近で、数千人の食客をかかえていた。政治家でもあったが、学問と芸術の保護者(いまでいうパトロン)でもあつた。
中国戦国時代の趙の公子で政治家。趙の平原君は、趙の王族のひとりで、恵文王と孝成王の時代に宰相として仕えた。戦国四君の一人。彼もまた数千人の食客を抱えていた。
趙は前二六〇年の長平の戦いで秦に大敗し、四〇万人の兵が生き埋めにされ、さらに、前二五七年に秦によつて都を攻められ包囲された。平原君は援軍を要請するために楚に向かった。そのとき、食客二〇人を連れていき、そのひとりが援軍をしぶる楚を大喝したおかげで、趙と楚の同盟が成立し、秦の侵攻を食い止めることができた。だが、それは一時的なものにすぎなかつた。平原君は、前二五一年に亡くなった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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