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信陵君 2008年08月22日(金)更新
(?~前244年)
食客という言葉がある。任侠の世界で、金持ちの家で何をするでもなくごろごろとしている居候のことをいう。普段はただで飯を食べているだけだが、何かのときに役に立つ(かもしれない)人々で、気持ちにも経済的にも余裕のある人が、こうした食客を家に何人も抱えていた。食客は自分を食わせてくれそうな人がいると聞けば、どこの国にも行ったので、食客が多くいることは、その人物が全中国的に有名なことを意味していた。つまり、食客の数は、人気と財力のバロメーターだった。戦国時代後期、貴族のなかに食客を何百人も抱えるものがいた。そのなかでも特に有名な四人を「戦国の四君」という。彼らは各国の王の一族や側近で、数千人の食客をかかえていた。政治家でもあったが、学問と芸術の保護者(いまでいうパトロン)でもあつた。
魏の信陵君は安釐王の弟だった。前二五七年に趙が秦に攻められると、魏は救援に向かう約束をしたが、秦から「趙は時間の問題で滅びる。その趙に手を貸せば、その後、魏を攻めるぞ」と恫喝され、魏の安釐王は軍を国境で止めてしまった。
信陵君のもとに趙からは何度も援軍の要請が来る。そこで、王の命令に背いて食客の助けを借りて軍を掌握すると、趙の援軍に向かった。戦後、信陵君は王の命に背いたので帰れば処罰されると思い、趙に一〇年にわたり滞在した。その間も諸国から信陵君のもとに人々が集ってきた。 一方、信陵君がいないのをいいことに、秦はたびたび魏を攻めた。魏の安釐王は信陵君に帰国するよう求めた。食客の助言もあり、信陵君は帰国し、兄と再会した。そして正式に軍の指揮権を授かると、秦との戦いに挑んだ。前二四七年、魏と、楚・趙・韓・衛との同盟が成立し、五か国連合軍が秦と決戦した。各地で戦闘があり、連合軍は三度にわたり、秦軍に圧勝。信陵君の名声は高まった。
軍事力で負けた秦は謀略戦に出た。食客たちに金をばらまき、信陵君が王位を狙っていると安釐王に吹き込んだのである。この讒言を信じた王は信陵君を将軍から解任した。信陵君は、病気と偽り政務を放棄し、酒と女に溺れる生活を送り、四年後に死んだ。信陵君がいなくなったので、秦は安心して魏を攻めた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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