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劉備・孫権同盟赤壁之戦
2008年09月07日(日)更新
【和:りゅうび・そんけんどうめい】 |
【中:Liu bei・sun quan tong meng】 |
秦・漢・三国|>劉備・孫権同盟 |
夏口に到着した劉備一行のなかに、ひとり意外な人物の姿があった。呉の孫権のブレーン魯粛(一七二~二一七)である。劉表死去の知らせが入ると、魯粛は自ら孫権に申し出て、劉表弔問の名目により、荊州情勢の偵察に出発した。劉表没後、 一筋縄ではいかない英雄劉備を中心に、お家騒動を波じた劉表の息子たちが、こだわりを拾てて結束するならば、孫権はこれと同盟して北の曹操に対抗するのが得策である。逆に、彼らが性懲りもなく争い紛糾がつづく場合は、これを機に呉に隣接する荊州を奪取してしまえばよい。これが、魯粛の意見であった。
しかし、魯粛が荊州に入ったとき、すでに曹操軍がまぢかに迫っていた。そこで魯粛は急転回する情勢を追って、呉との国境に近い夏日から西のかた南郡(湖北省沙市市)へ到達、さらに南郡から当陽の長坂まで北上したところで、曹操の猛追撃をかわしたばかりの劉備主従とめぐりあう。劉備と会談した魯粛は、江東に堅固な地盤をもつ孫権のもとに、腹心の部下を派遣して同盟を結び、 一致協力して曹操にあたるべきだと説き、劉備を大いに喜ばせた。 このとき魯粛は、会談に同席していた諸葛亮に、人なつっこく「私は子瑜の友だちです」と語りかけた。子瑜とは孫権に仕える諸若克の兄、諸葛理のあざなである。諸葛亮の気持はいっぺんにほぐれ、二人はたちまち親しくなった。考えてみれば、孫権と劉備が同盟して北の曹操に対抗すべきだという魯粛の持論と、諸葛亮の天下三分の計は、もともと共通点が多い。ニ人が意気投合するのも当然といえば当然なのである。ただ、魯粛のプランは究極的に「天下ニ分の計」つまり、北の曹操対南の孫権という構図であり、諸葛亮の「天下三分の計」と、いずれ衝突する運命にあるのは、明らかだった。
しかし、それは先の話であり、諸葛亮にとっても魯粛にとっても、どうすれば孫権と劉備の同盟を成立させることができるか、これが当面の最大課題であった。魯粛をともなって逃避行をつづけた劉備は、ようやく夏口のすぐ西の樊口に陣を敷くことができた。しかし、曹操は追撃の手をゆるめず、今度は水軍を率いて迫ってくる。もはや一刻の猶予もならない。諸葛亮は劉備に、「事態は切迫しております。孫将軍にお目通りし、救援を仰ぐよりほかありません」と告げると、魯粛にともなわれ孫権のもとへと旅立った。
このとき、孫権は夏口のすぐ東南の柴桑(江西省九江市)に駐屯していた。孫権は、建安五年(ニ〇〇)、「江東の小覇王」と呼ばれ、疾風のように江東を制覇した兄の孫策が、テロルに斃れ夭折したあと、十九歳でその後を継いだ。彼は兄のような天分には恵まれなかったものの、有能な臣下の意見に耳を傾け、江東の地盤を着実に固めて、版図をジリジリと拡大した。孫策の重臣だった学識豊かな張昭(一五六~三三六)が行政を担当する一方、孫策の盟友で比類ない軍事的オ能の持ち主周瑜が、軍事責任者となり、車の両輪のように若い孫権政権を支えた。ただ、シビリアン(文官。行政官)の張昭がお家大事の慎重派であるのに対して、周郎(周の若殿)と呼ばれ、呉の人々に畏敬された周瑜は、乾坤一側の大勝負に燃える典型的な攻撃型の武将であった。魯粛はこの周瑜の古い友人であり、その引きで孫権に仕えるようになったのである。
よきブレーンに支えられ江東の地盤を不動のものにした孫権は、建安八年(ニ〇三)ごろから、隣接する荊州への進出をもくろみはじめた。手初めにまず、当時、夏口に駐屯していた劉表の部将黄祖に攻撃をかけたが、なかなか攻め落とすことはできなかった。孫策・孫権兄弟の父孫堅は、黄祖と対戦中に不慮の死を遂げており、孫権にとって黄祖は父の仇でもあった。なんとか黄祖を討ち取りたい。孫権は周到に準備を重ね、建安十三年、周瑜を総司令官とする軍勢を繰り出して、水陸両面から猛攻をかけ、ついに黄祖を討ち取ることに成功した。このあと、孫権はいったん軍を引いて柴桑に駐屯したため、諸葛亮の忠告をうけた劉表の長男劉琦が、黄祖の後任の大守として夏口に駐留、そこに曹操に追われた劉備が逃げ込んで来たわけだ。
さて、魯粛に伴われて柴桑に到着した諸葛亮は、さっそく孫権と会見、華麗な弁舌を駆使して劉備との同盟を迫る。「いま曹操は大乱を平定し、荊州を打ち破ってその威勢は天下を震わせております。英雄も武力を用いる余地がなく、このため劉豫州(劉備)も敗北されたのです。将軍よ、あなたも自分の力量をはかり、この事態に対処なされませ。もし、自分の武力をもって曹操に対抗できるとお考えなら、即刻国交を断絶されるに越したことはありません。また対抗できないとお考えなら、臣下の礼をお取りになるべきです」
このとき諸葛亮は二十八歳、孫権はその一つ下の二十七歳。同世代の諸葛亮に挑発され、もともと主戦論的傾向の強い孫権は、大いにやる気をおこし、即刻、重臣会議を招集した。
しかし、お家大事の張昭を筆頭に、曹操の大軍と正面対決するなどもってのほかとする意見も強く、侃々諤々、なかなか結論が出ない。実はちょうどこのころ、曹操から「わが軍が南下するや、劉琮は無条件降伏した。今度は八十万の水軍を整え、将軍と呉で狩猟したいと思う」と胴喝する書状がとどき、張昭らシビリアンは震えあがっていたのである。
降伏論がしだいに支配的となる会議の席上、魯粛は沈黙したままだった。張昭はかねてから、魯粛をほら吹きだと批判しており、発言しても説得力がなかったのだ。長評定に嫌気がさした孫権はつと厠に立った。さりげなくあとを追った魯粛は、軒下で孫権をつかまえると、諄々と説いた。「彼らの議論は将軍を誤らせるものであり、ともに大事を図るに足りません。私のような者なら曹操に降伏しても官位を与えられ、刺史(州の長官)や太守(郡の長官)になることもできます。しかし、将軍だけはそうはいかず、身の置き所がなくなります。どうかはやく決心なさってください。あの人たちの意見をお聞き入れになってはいけません」。孫権はためいきをつきながら、「あの者たちの議論には失望するばかりだ。あなたの意見こそ、私の気持とぴったりだ」と答えたのだった。
主君とはいえ若い孫権と、ほらふき魯粛だけでは、とても張昭ら降伏論者を説きふせることはできない。そこで急遽、柴桑の東南約三十キロの鄱陽に駐屯し、呉の水軍の訓練にあたっていた周瑜が呼び寄せられた。駆けつけた周瑜は、重臣会議の席上、理路整然と主戦論を展開、自分に三万の軍勢を与えてくれれば、八十万の曹操軍を必ず撃破できると豪語し、降伏論者を論破した。北方育ちの曹操の主力軍は騎兵戦を得意とし、水上の戦いに不慣れであること。厳寒の季節のいま、はるか北方から遠征してきた曹操軍の兵士は疲労困憊しており、疫病にかかるのは目にみえていること。周瑜はこれらの点を、曹操軍の致命的な弱点として明確に指摘したのである。千両役者周瑜の登場によって、会議の風向きはガラリと変わった。これに勢いを得た孫権はすかさず決断をくだし、刀を抜いて目の前にあった机に切りつけ、「今後、曹操に降伏せよという者は、これと同じ目にあうぞ」と凄んでみせたのだった。
孫権政権と曹操との正面対決の筋書きを書いたのは、魯粛と諸葛亮であった。これが呉の当主孫権を動かし、実力・人気ともに孫権政権ナンバーワンの周瑜がグメ押しに登場、政権内部の降伏論者を押さえ込んで、このストーリーを実現させたという仕組みである。よりかえってみると、攻撃型の周瑜は終始一貫、曹操との対決路線を主張しつづけてきた。六年前の建安七年(ニ〇ニ)、天下統一を狙う曹操が孫権を牽制するため、息子を人質に出せと、無理難題をよっかけてきたことがある。このときも周瑜は、ここは涙をのんで曹操に従うべきだとする慎重派の張昭らを論破し、孫権に曹操の要求を拒絶させた。すでにこの時点で、孫権政権は、曹操と対決する道へと一歩踏みだしたというべきであろう。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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