考古用語辞典 A-Words

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漢中争奪戦  2008年09月10日(水)更新

漢中争奪戦
【和:かんちゅうそうだつせん
【中:Han zhong zhen duo zhan
秦・漢・三国|>漢中争奪戦

   一方、曹操の漢中制覇に対応すべく、大慌てで劉備が蜀にもどると、曹操は夏侯淵・張郁・徐晃らを漢中のおさえとして残し、自らはすでに帰還の途についていた。張魯が降伏し、漢中を制覇した時点で、曹操に同行した司馬懿(179~251)らブレーンは、劉備政権が成立してまもない今こそ、余勢を駆って一気に蜀に攻め込むべきだと主張した。ちなみに、曹操政権における司馬懿の存在は、荀彧・荀攸ら第一世代のブレーンの死後、ことにこの漢中制覇のあたりから、急速にその比重を増すのである。しかし、曹操は、「すでに朧(甘粛省)を得たのに、 このうえ蜀を望むとは」と、悟ったような発言をして、司馬懿の進言を受け入れなかった。ここにみえる「望蜀」は、後漢王朝の創設者光武帝の言葉を踏まえたものであり、 一つの望みを達したあと、さらにもう一つと欲張ることをいう。曹操は、この前年の建安十九年、後漢の献帝の妻伏后を謀反罪で処刑、その後釜に自分の娘を据えるなど、ますます勢力を強めていた。江南へ漢中へと、戦いにつぐ戦いを重ねながら、さらなる飛躍をめざして、着々と政治工作をすすめていた曹操にとって、そんなに長く根拠地を離れ遠征を続けることには、抵抗があったのだろう。その証拠に、漢中から帰還した約半年後の建安二十一年(216)五月、曹操は魏王となり、帝位まであと一歩というところまで迫るのである。
いずれにせよ、曹操が漢中から撤退、蜀への進攻を断念したことは、劉備政権にとり、このうえない朗報であった。これにより劉備は、諸葛亮の陣頭指揮のもとで内政固めをおこなう一方、軍備を充実させる時間を稼ぐことができた。しかし、その矢先、荊州を分割統治することで、ようやく修復された孫権との同盟関係の雲行きが、またもやあやしくなる事件がおこる。
建安二十二年(217)、その後も曹操の江南進撃に悩まされていた孫権は、劉備側の荊州軍責任者関羽との軋轢が激しくなったためもあり、 一転して曹操のもとに使者を送り、降伏を願い出、曹操もこれを受け入れたのである。赤壁の戦い以前から、あれほどシビアに曹操の掣肘を受けることを拒否してきた孫権が、いくら劉備や関羽との関係がこじれたからとはいえ、なぜこんなにあっけなく曹操と手を結んだのか。それは、終始一貫、孫権に対し劉備と同盟して曹操に対抗するよう説き、劉備や関羽や諸葛亮に基本的に好意を抱きつづけた、呉の軍事責任者の魯粛が病み、まもなく死んだことが大きく響いたに相違ない。魯粛の死後、後住の軍事責任をとなった呂蒙は、叩きあげのすこぶる有能な軍事家ではあったけれども、とても周瑜や魯粛のように、グローバルな観点から戦略を立てられるようなタイプではなかったのだ。
孫権が曹操と結んだ以上、劉備としては単独で普操に対抗するしかない。そこでまず、法正の進言にしたがい、劉備は蜀と隣接する漢中に進出した曹操の勢力を追いはらうべく、建安二十二年末、張飛・馬超・呉蘭を漢中に出陣させ、漢中に駐屯する曹操の将の夏侯淵・張郃を攻撃させた。これに応じて曹操は、信頼する従弟の曹洪を救援に向かわせたところ、曹洪は翌建安二十三年三月、呉蘭を撃破し、張飛と馬超を敗走させるという戦功をあげた。これではならじと、劉備自ら諸将を率いて漢中に出撃、陽平関(陝西省勉県の西)に陣取ったが、徐晃や張郃など曹操軍団のベテラン部将にはばまれ、思わしい戦果をえられない。
手詰まりになった劉備は、成都で留守を預かる諸葛亮に至急の文書を送り、兵員の増強を求めた。このとき、思案にくれた諸葛亮は蜀郡従事の楊洪に相談をかけた。すると楊洪は、「漢中は蜀の喉もとであり、存亡の分かれ日となる要地です。もし漢中を失えば、家門の一大事となります」と答えた。どれほど兵力をつぎこんでも、漢中を失ってはならないというわけだ。諸葛亮はこの意見に従った。楊洪は劉璋政権の誠実な地方官吏だった人物だが、この発言から、彼がすでに完全に劉備政権に溶け込み、全面的に劉備サイドに立っていることがわかる。諸葛亮の内政固めは上々の首尾をおさめたのである。諸右亮はこれにより楊洪を高く評価し、劉備の参謀として漢中に出陣していた法正の代理の蜀郡太守に任じ、腕をよるわせたのだった。
兵員を増強し、漢中に腰を据えた劉備に対抗して、まもなく曹操もまた武勇にすぐれる二男の曹彰を従え、自ら漢中めざして出撃してきた。いよいよ曹操対劉備の漢中争奪戦の正念場である。
明けて建安二十四年(219)一月、曹操の大軍がまだ長安(陝西省西安市)にいたころ、漢中戦線に大きな変化がおきた。夏使淵と睨みあいの長期戦のさなか、劉備は陽平関から南下して沔水を渡り、山に沿って徐々に前進し、定軍山に陣営を築いた。これに対し、夏侯淵はただちに軍勢を率いて攻撃をかけてきた。このとき、劉備の参謀法正は「撃つべし」と決戦を主張、たちまち激しい戦闘になった。ここで、めざましい活解をみせたのは、劉備軍の老将黄忠である。黄忠の率いる軍勢は、天地もどよめかさんばかりに鉦や太鼓を打ち鳴らし、谷を動かすほどの喊声をあげながら、夏侯淵軍を攻めまくり、黄忠自ら鋒をよりかざして、果敢に敵陣に突撃した。この結果、たちまち夏侯淵軍はさんざんに打ち破られ、大将の夏侯淵は斬り殺されてしまう。もともと曹操は勇にはやる夏侯淵を案じ、「一軍の将たる者はときに臆病でなければならない。ひたすら勇気に頼ってはいけない」と注意していたにもかかわらず、夏侯淵は無謀な勇敢さによって、身を滅ぼしてしまったのである。劉備は、この大勝利を契機としていっきょに優勢となった。
劉備軍勝利の立役者黄忠は、このときすでに七十歳になんなんとしていた。黄忠は晩年、荊州を領有した劉備に仕えるようになってからメキメキ頭角をあらわし、「老いの花」を咲かせた人である。もっとも、夏侯淵を撃破して有頂天になった黄忠は、張り切りすぎてつい暴走してしまったこともある。夏侯淵戦死の報をうけた曹操は長安を出発、建安二十四年三月、斜谷道から漢中に入り陽平関に到着した。このとき運搬されてきた曹操軍の食糧(数千万袋の米)が、北山の麓に山と積まれた。これを知った黄忠は、さっそく趙雲の配下の兵士を引き連れ、略奪に向かったのである。しかし、黄忠は趙雲との約束の刻限がすぎても帰って来なかった。
心配になった趙雲は千勢を率いて偵察に向かう途中、曹操の大軍と出くわしてしまう。かつての長坂の戦いでもそうであったように、劣勢にまわったときの趙雲の強さときたら、文字どおり超人的だ。彼は大軍勢を小気味よく撃ち破り、サッと馬を返して自らの陣営に立ちもどった。曹操軍が追撃してくると、なんと趙雲の陣営は大門を開け放って、ひっそり静まりかえっているではないか。きっと伏兵がいるにちがいない。疑心暗鬼になった曹操軍が撤退にかかった瞬間、陣太鼓が鳴り響き、背後から雨アラレと弩が発射された。たちまち曹操軍は総崩れとなり、大敗北を喫してしまう。世にいう「空城の計」、趙雲の作戦勝ちである。翌日、趙雲の陣営を訪れた劉備はひとしきり感嘆したあと、「子龍は体中が肝っ玉だ」と、その豪胆さを称えたのであった。この戦闘のきっかけを作った黄忠も無事に帰りつき、劉備軍の気勢はいっそうあがった。 黄忠や趙雲の大活躍によって、漢中争奪戦の動向は決定的に劉備優勢となり、劣勢おおうべくもない曹操は思いきりよく、二か月後の建安二十四年五月、漢中から軍勢を全面撤退させ、長安に帰還した。これにさきだち、撤退の決意を固めた曹操は、軍中に「鶏肋」(ニワトリのアバラ骨)という謎のような命令を出した。無骨な武将たちは、むろん誰も理解できない。このとき、才子の楊脩(?~219)は難なく謎を解き、「鶏肋は捨てるにはもったいないが、食べようとしても肉がない。これを漢中にたとえられたのだから、殿は帰還なさるおつもりだ」と言い、率先して帰り支度を始めた。しかし、目から鼻に抜ける楊脩のオ気はかえって曹操のプライドを傷つけ、楊脩は帰還後すぐ処刑されてしまう。もっとも楊脩は、建安二十二年、正式に曹操の後継者となった曹丕(一八七~二二六)のライバル、曹植(曹丕の弟。 192~232)の有力なブレーンであった。曹操は、お家騒動の火種になりそうなこの才子を未然に始未したのであり、「鶏肋」の謎解きをされたことが、必ずしも処刑の直接の原因ではないのだけれども。
漢中は、曹操にとっては「鶏肋」にすぎないだろうが、劉備にとっては「蜀の喉もと」であり、関中へ出るためのかけがえのない根拠地である。こうして争奪戦に勝利し、曹操を追いはらって、首尾よく漢中を領有しえたことは、劉備のまたとない幸いであった。後年の諸葛亮の北伐とて、関中へ進撃するための拠点となる漢中の地があったからこそ、実現したといえよう。漢中を支配下におさめたことは、蜀政権にとって実に大きな意味があったのだ。
戦勝ムードあふれるなかで、建安二十四年七月、劉備は漢中王となり、息子の劉禅を太子に立てる。挫折と敗北を繰り返した劉備にとって、宿敵曹操に打ち勝ったこのころが、その人生最良のときであった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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