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関羽悲劇 2008年09月11日(木)更新
【和:かんうのひげき】 |
【中:Guan yu de bei ju】 |
秦・漢・三国|>関羽悲劇 |
建安二十四年(219)正月、荊州北部の軍事拠点宛(河南省南陽市)の守将が反乱したため、曹操は、赤壁の戦い以来、荊州と縁の深い猛将曹仁を派遣して反乱を平定させた。曹仁は南下して樊に駐屯、以後も引きつづき荊北部に睨みをきかせる。この曹仁の南下が、蜀の荊州軍事責任者関羽を大いに刺激し、これに運動して、関羽との軋蝶轢が深刻化していた孫権も動きだす。これから見て明らかなように、曹操は赤壁の戦いに敗北し荊州から撤退したとはいえ、荊州北部は依然としてその支配下にあった。つまり、この時点において荊州は三分割され、その北部を曹操、南西部を劉備、南東部を孫権が支配する形になっていたのである。関羽は三国の利害が交錯する荊州の緊張関係のバランスを、 一気に突き崩した。
劉備が曹操に攻め勝ち漢中王となった勢いに乗ずるかのように、建安二十四年八月、関羽は軍勢を率いて根拠地の江陵から北上、曹仁の駐屯する樊を急襲した。ちょうど、建安十三年、南下した曹操に追われ、劉備ともども逃避したコースを、逆にたどったわけだ。まして突は彼ら主従のかつての駐屯地である。関羽にはその地勢から天候まで、馴染み深いものだったにちがいない。
関羽の猛攻をうけ包囲された曹仁を救援すべく、急遽、曹操は于禁および龐徳を派遣したが、おりしもよりだした長雨にたたられ、于禁の陣営は水没してしまう。このとき、于禁は万策尽きて関羽に降伏してしまったけれども、かたや龐徳は生け捕りにされてもなお、「魏王(曹操)は百万の軍勢を擁し、その威光は天下に鳴り響いておられる。おまえの劉備なぞはボンクラにすぎぬ。わしは国家の鬼になっても賊の将にはならぬ」と、関羽を罵倒して降伏を拒否、 ついに処刑されたのだった。もろくも降伏した于禁は、曹操軍団創成期以来の名将であった。これに対し、敢然と降伏を拒否した龐徳はもと馬超の部将であった。彼は、馬超が劉備の傘下に入った後も漢中の張魯のもとに留まり、張魯が曹操に降伏すると、曹操軍団に繰り込まれその部将となったのである。
曹操は于禁が降伏し、龐徳が処刑されたと知るや、「わしは于禁を知ってから三十年になるが、危機に陥んで、龐徳に及ばないとは思いもよらなかった」と、ためいきをついたという。戦歴三十年、曹操軍団はえぬきの名将于禁は臆病風に吹かれて降伏し、流転の新参者龐徳はあっぱれ、死に花を咲かせた。極限状況に追いつめられたとき、人はまったく思いもかけぬ貌を露呈するものである。
こうして頼みの網の援軍を関羽に撃破され、樊城に立てこもる曹仁はますます苦しくなった。長雨で城壁はほとんど水没し、食糧は底をつきかけているのに、関羽に十重二十重に包囲され、新手の援軍もいっこうにやって来ない。しかし、曹仁はかつて江陵で周瑜の猛攻を受けながら、孤立無援、 一年も持ちこたえた恐るべき胆力の持ち主である。ここでもその危機をものともしない豪胆さを遺憾なく発揮して、彼は徹底的にがんばりぬいた。やがて曹操軍団の猛者、戦さ上手で知られるベテラン部将徐晃が救援に駆けつけ、関羽の軍勢を巧みにおびき出して攻撃を加えたため、関羽はようやく樊城の包囲網を解いて撤退したのだった。
これを契機に、緒戦から当たるべからざる勢いで驀進してきた関羽の優位に翳りが生じ、やがてその運命は決定的に暗転するに至る。関羽は突に出撃した当初、魯粛の後を受けて陸口に駐屯する呉の軍事責任者呂蒙に、背後を衝かれることを恐れ、荊州の根拠地に多数の兵力を残した。これよりさき、関羽は彼の娘を息子の嫁にもらいたいという、孫権の申し出をにべもなくはねつけたことがあった。孫権は一方で建安二十二年以来、曹操と同盟を結んでいたのだから、剛毅な関羽が曹操と関羽の両方に媚びるような孫権の態度に腹を立てたのも無理はない。そんなわけで、このころ関羽と孫権の関係は悪化の一途をたどり、樊出撃にさいしても、関羽は孫権の意をうけた呂蒙の動きに、おさおさ警戒を怠らなかったのだ。関羽の警戒を解くべく呂家は一計を案じた。自分が病気がちであることを利用し、重態になったていを装って陸口の駐屯地を離れ、呉の首都建業にいったん帰還する。しかも念には念を入れて、自分の後釜には軍事センス抜群ながら、当時まだ無名だった陸遜(183~245)を据える。そうすれば、関羽は安心して残留させた兵を樊に移動させるにちがいない。なんと関羽はこの「呂家の計」に、もののみごとに引っ掛かった。関羽は剛勇無双のうえ若干の教養も兼ね備えているのだが、単純なところにもってきて、見境いのない意地っ張りだから、人の心理の裏をかくような陰湿な策略は得意ではないのだ。
さて関羽側の守りが手薄になった隙をついて、呂蒙はすばやく行動をおこした。彼は商人に変装した部下の精鋭兵を船に乗り込ませ、昼夜兼行で長江を遡り、長江沿いに配置された関羽側の関所を通過するたびに、ゆだんした斥候兵(物見の兵を縛り上げながら、関羽の荊州の拠点の公安および江陵を急襲した。このとき、関羽の留守を預かり公安に駐屯していた士仁と江陵に駐屯していた麋芳の二将は、かねがね関羽に軍資輸送の遅延を咎められ、処罰されることを恐れていたので、戦わずして降伏してしまう。この結果、呂蒙は一滴の血も流さず、 いとも簡単に関羽の根拠地を制圧することができた。江陵に入城すると、呂蒙は樊から移送されていた于禁を即座に解放し、また城内に残っていた関羽の家族や配下の将兵の家族を予厚く過した。この賢明な占領政策により、城内はよく治まったのだった。 一方、関羽は足元に火がついているのに、斥候兵を一綱打尽にされていたため、この呂蒙の機敏な動きにまったく気づかなかった。
関羽は完全に進退きわまった。徐晃に撃破され一転して劣勢に陥り、根拠地の江陵にもどろうとしても、すでに呂蒙に押さえられてしまっている。おまけに、呂蒙のおだやかな占領政策が功を奏し、家族が無事安泰であることを知った関羽軍の兵士の多くは、戦意を喪失し、脱走者があいつぐ始末。魂と共に挟み撃ちにされ孤立無援となった関羽は、南下して麦城(湖北省単陽県の東南)に逃げ込み、さらにわずか十数騎の手勢を率いて逃走しようとした。この逃走経路もまた、かつて曹操に追われ劉備とともにたどったコースである。しかし、こんどは奇跡はおこらなかった。関羽は、待ち構えていた孫権の将朱然および潘璋に捕らえられ、養子の関平ともども斬殺されてしまったのだ。ときに建安二十四年十二月のことである。
劉備が蜀に入り、 つづいて義弟の張飛をはじめ諸葛亮・趙雲ら主力部将がこぞって蜀に入ってから約五年、関羽はずっと軍事責任者として荊州に残留しつづけた。この間、関羽は一度も蜀に行かなかった。旧友たちとの再会も果たさず、彼は死んでいったのである。関羽の首は、孫権から曹操のもとに送られ、関羽を高く評価しその人となりを愛した曹操は、諸侯の礼をもってこれを葬ったという。
ちなみに、関羽敗死の筋書きをかいた呂蒙も関羽の死後まもなく、深く病んで世を去ったも関羽を哀惜してやまない『三国志演義』(第七十七回)は、関羽の怨霊が呂蒙に乗りうつり、呂家は体中から血を流して息絶えたとし、関羽のためにうっぷん晴らしをしている。
関羽の敗死により、孫権は劉備側の荊州の支配領域を奪取、劉備は荊州の足がかりを完全に失った。諸葛亮の当初の天下三分の計は、呉と同盟し、荊州と蜀の双方を支配することがポイントだった。その基本構想は、ここに根本的な軌道修正を余儀なくされる。関羽はひたすら生きいそぎ、蜀の国家戦略からみれば、明らかに大失態を演じた。それは否めない事実なのだが……。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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