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出師表 2008年09月12日(金)更新
【和:すいしのひょう】 |
【中:Chu shi biao】 |
秦・漢・三国|>出師表 |
南中征伐の二年後の建興五年(227)三月、諸葛亮は劉禅に「出師の表」をささげ、漢中に軍を進めた。その死に至るまで、合計六回(五回とする説もある)通算八年にわたり、超大国魂に挑戦しつづけた北伐の始まりである。魏ではこの前年の五月、文帝曹丕が死去して息子の曹叡が即位、魏の第三代皇帝明帝になったばかりだった。諸葛亮はこの交替期の間隙をついて出陣したのである。
「先帝(劉備)は、始められた事業がまだ半分にも達しないのに、中道にしておかくれになりました。いま天下は三つに分裂し、蜀の国は疲弊しきっております。これはまことに危急亡の秋です」と、書き出される「出師の表」は、まさに古今の名文である。ここで諸葛亮はまず、自分が出陣したあと、各々の分野のエキスパートである臣下を頼みとするよう、暗愚な劉禅を諄々とさとし、 ついで劉備との長年の交情を感慨深くよりかえる。
「私はもともと無官の身であり、南陽(湖北省襄樊市)で農耕に従事しておりました。乱世では生命をまっとうするのがせいぜいで、諸侯の間に名が知れることなど願っておりませんでした。先帝は私を身分卑しい者となさらず、自ら辞を低くして三度も私を草屋にお訪ねくださり、当代の情勢をおたずねになりました。これによって感激し、先帝のもとで奔走することを承知いたしました。(中略)いま南方はすでに平定され、軍備も整いました。まさに三軍を率い、北方中原の地を奪回すべきときです。願わくは愚鈍のオを尽くし、凶悪な姦賊を掃討して、旧都洛陽を取りもどしたいと存じます。これこそ私が先帝の恩に報い、陛下に尽くすために果をさねばならぬ務めであります」。諸葛亮は劉備の三顧の礼を受け、はじめて天下三分の計を披瀝した時点で、劉備に対しはっきりと「荊州と益州を支配され、孫権と同盟を結んで力を蓄え、華北へ進撃する機会をうかがわれたならば、天下統一も夢ではありません」と述べている。諸葛亮にとって、天下三分つまり三国分立はあくまでプロセスであり、けっして最終目的ではなかった。最終的な目的は、むろん天下統一だ。もはや劉備はこの世を去り、荊州も孫権の手に帰してしまった。だが、諸葛亮は手の内に残ったカードだけで、最後の勝負に出ようとしたのである。諸葛亮はシビリアンとしても軍事家としても、事前に級密な計画を練りあげたうえで、それを一つ一つ着実に実行に移す徹底した合理主義者であった。しかし、このプロセスにおける合理主義者は、実は、計算を度外視して自らの夢に賭けるロマンティ.ストでもあった。魏・蜀・呉の三国のうち、もっとも弱小な蜀から撃って出て、天下統一を視野に入れながら、最強国の魏を攻めようなどという、ほとんど妄想に近いその大胆な発想は、諸葛亮が途方もないロマンティストであったことを、自ずと示している。
むろん、強大な魏の威圧に耐え、辺境の蜀の領上を後生大事に守っているだけでは、ジリ貧になる一方だ。攻撃は最大の防御なり。座して死を待つよりは、積極的に撃って出たほうがいいという計算も、賢明な諸葛亮には確かにあったにちがいない。しかし、それよりもなによりも、やはり諸葛亮は、劉備との初めての出会いのときから、ずっと持ちつづけた夢の実現のために、及ばずといえども最後の力をふりしぼり、自らの生涯を完全燃焼させようとしたのだ。六度にわたる執念の北伐はまさに、後漢末
の転換期に生をうけた諸葛亮の、壮大な乱世のロマンだった。
劉禅に「出師の表」をささげたあと、諸葛亮は成都から出発して漢中に軍勢を進め、沔陽(四川省勉県の西)に陣を敷いた。このとき諸葛亮は四十七歳。ちょうど三顧の礼をもって諸葛亮を招いたときの劉備と、同じ年齢であった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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