企画展「さんむ市の偉人」山武市歴史民俗資料館

企画展「さんむ市の偉人」山武市歴史民俗資料館

名称:企画展「さんむ市の偉人」山武市歴史民俗資料館
会期:令和3年6月8日(火)~ 10月17日(日)
住所:〒289-1324千葉県山武市殿台343-2
TEL:0475-82-2842
URL:山武市歴史民俗資料館

今回の企画展では幕末から明治、大正、昭和の激動期に大いなる志を持ち、全力で郷土のために活躍した8人の偉人を、書籍・資料を交えて紹介いたします。

太田 資美( おお た す けよ し )嘉永 7 年(1854)~大正 2 年(1913) 官位:従五位下備中守 幕府・明治政府:松尾藩知事子爵 資始の 7 男。文久 2 年(1862)家督を継ぎ、掛川藩太田家 11 代目、遠江国掛川 7 代藩主となる。 慶応 3 年(1867)の大政奉還に伴い、翌年の徳川家達いえさとの駿府入封のため、掛川から上総国武射郡へ移封。明治 2 年(1869)版籍奉還で柴山知事となり、明治 4 年(1871)に松尾藩(現山武市)に改称、同年木更津県に吸収され廃藩となる。
太田 資美( おお た す けよ し )嘉永 7 年(1854)~大正 2 年(1913) 官位:従五位下備中守 幕府・明治政府:松尾藩知事子爵 資始の 7 男。文久 2 年(1862)家督を継ぎ、掛川藩太田家 11 代目、遠江国掛川 7 代藩主となる。 慶応 3 年(1867)の大政奉還に伴い、翌年の徳川家達いえさとの駿府入封のため、掛川から上総国武射郡へ移封。明治 2 年(1869)版籍奉還で柴山知事となり、明治 4 年(1871)に松尾藩(現山武市)に改称、同年木更津県に吸収され廃藩となる。
大高 善兵衛( お おた か ぜ ん べえ ) 文 政 5(1822)年~ 明 治 27(1894)年 凶作・貧困による「間引き」で 蔓延 まんえん し ていた悪習を改めるために幕府に間引 き禁 止・小 児 教育 の 嘆願 書 を再 三 提出 。 自らは私財を投じて捨て子の教育に専 念する。間引きの原因は母乳不足と貧 困と 考 え、乳 牛の 研 究に 着 手、「 常盤 牧 ときわまき 」 を作って牧畜業を起こし、自らは 嬰児 えいじ 救済 事 業に 専 念す る。 生涯養育し た 孤 児 は 数 百 人 に 及 び 、 社 会福祉事業の先駆者として高い評価を 受け る 。
大高 善兵衛( お おた か ぜ ん べえ ) 文 政 5(1822)年~ 明 治 27(1894)年 凶作・貧困による「間引き」で 蔓延 まんえん し ていた悪習を改めるために幕府に間引 き禁 止・小 児 教育 の 嘆願 書 を再 三 提出 。 自らは私財を投じて捨て子の教育に専 念する。間引きの原因は母乳不足と貧 困と 考 え、乳 牛の 研 究に 着 手、「 常盤 牧 ときわまき 」 を作って牧畜業を起こし、自らは 嬰児 えいじ 救済 事 業に 専 念す る。 生涯養育し た 孤 児 は 数 百 人 に 及 び 、 社 会福祉事業の先駆者として高い評価を 受け る 。
伊藤左千夫(いと う さ ちお )元治元年(1864)年 ~大 正 2(1913)年本名幸次郎別号春園しゅんえん明治から大正時代に活躍した、歌人・小説家。 武射郡殿台村(現山武市)に生まれる。幼い頃から佐瀬春圃や父良作に漢詩や漢籍を学ぶ。政治家を志し明治法律学校(現明治大学)に入学するが、眼病を患い中退して帰郷。その後再度上京し、搾乳業をしながら、和歌や茶道を極めていく。正岡子規の「歌よみに与ふる書」に感化され、子規に師事する。子規没後は、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の実質的な後継者として優れた短歌・歌論を発表する。小説家としては、明治 39 年(1906)にホトトギスに発表した処女作「野菊の墓」が有名である。
伊藤左千夫(いと う さ ちお )元治元年(1864)年 ~大 正 2(1913)年本名幸次郎別号春園しゅんえん明治から大正時代に活躍した、歌人・小説家。 武射郡殿台村(現山武市)に生まれる。幼い頃から佐瀬春圃や父良作に漢詩や漢籍を学ぶ。政治家を志し明治法律学校(現明治大学)に入学するが、眼病を患い中退して帰郷。その後再度上京し、搾乳業をしながら、和歌や茶道を極めていく。正岡子規の「歌よみに与ふる書」に感化され、子規に師事する。子規没後は、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の実質的な後継者として優れた短歌・歌論を発表する。小説家としては、明治 39 年(1906)にホトトギスに発表した処女作「野菊の墓」が有名である。
蕨 眞一郎(わらび しんいちろう) 明治 9 年(1876)~大正 11 年(1922) 別号蕨真・礎山・杉霊・農林山人 職業林業家・歌人 山武郡睦岡村(現山武市)に生まれる。明治 33年(1900)、子規に入門。山武地域に広大な山林を持つ資産家であり 、「馬酔木」や「阿羅々木」を財政面で支えた人物。左千夫の茶室「唯真閣」の木材も、この人物から送られたものである。歌集『林澗集』には長歌が多く収められている。 蕨直治郎(わらび なおじろう)明治 12(1879)年~昭和 22(1947)年 別号橿堂 職業林業家・歌人 山武郡睦岡村(現山武市)に生まれる。兄眞一郎の死後、埴岡農林学校の経営を継承し、林業技術の研究・後継者の育成に尽力。 短歌の創作活動もしており、左千夫の門人となる。 歌集『橿(かし)の実』編集発行。 蕨一郎 (わらび いちろう) 明治13(1880)年~昭和 25(1950)年 別号桐軒 職業歌人 山武郡睦岡村(現山武市)出身。蕨眞・橿堂の従兄弟。左千夫に師事し、「馬酔木」には初期から投稿する。「アララギ」の編集に携わるが、明治 42(1909)年蕨真と対立、左千夫の仲裁もかなわず「アララギ」より退く。左千夫の晩年、無一塵庵を譲りうけ居住した。左千夫の晩年 90 日間を一番近くで過ごした人物。
蕨 眞一郎(わらび しんいちろう) 明治 9 年(1876)~大正 11 年(1922) 別号蕨真・礎山・杉霊・農林山人 職業林業家・歌人 山武郡睦岡村(現山武市)に生まれる。明治 33年(1900)、子規に入門。山武地域に広大な山林を持つ資産家であり 、「馬酔木」や「阿羅々木」を財政面で支えた人物。左千夫の茶室「唯真閣」の木材も、この人物から送られたものである。歌集『林澗集』には長歌が多く収められている。 蕨直治郎(わらび なおじろう)明治 12(1879)年~昭和 22(1947)年 別号橿堂 職業林業家・歌人 山武郡睦岡村(現山武市)に生まれる。兄眞一郎の死後、埴岡農林学校の経営を継承し、林業技術の研究・後継者の育成に尽力。 短歌の創作活動もしており、左千夫の門人となる。 歌集『橿(かし)の実』編集発行。 蕨一郎 (わらび いちろう) 明治13(1880)年~昭和 25(1950)年 別号桐軒 職業歌人 山武郡睦岡村(現山武市)出身。蕨眞・橿堂の従兄弟。左千夫に師事し、「馬酔木」には初期から投稿する。「アララギ」の編集に携わるが、明治 42(1909)年蕨真と対立、左千夫の仲裁もかなわず「アララギ」より退く。左千夫の晩年、無一塵庵を譲りうけ居住した。左千夫の晩年 90 日間を一番近くで過ごした人物。
安井理民(やすいはるたみ) 安政6年(1859)~明治 27 年(1894) 明治11年 (1878)、19歳で戸長 (現在の町長)となり、自宅に役場を置き町制に励む 。27歳の時に、鉄道創設事業を志し 、明治22年 (1889)総武鉄道会社を設立。 しかし病魔に侵され明治27年(1894)2月、鉄道開通を見ずに36歳の若さで亡くなる。 その後同志の働きで明治30年(1897)5月に、市川~佐倉、6月に成東~銚子が開通した 。
安井理民(やすいはるたみ) 安政6年(1859)~明治 27 年(1894) 明治11年 (1878)、19歳で戸長 (現在の町長)となり、自宅に役場を置き町制に励む 。27歳の時に、鉄道創設事業を志し 、明治22年 (1889)総武鉄道会社を設立。 しかし病魔に侵され明治27年(1894)2月、鉄道開通を見ずに36歳の若さで亡くなる。 その後同志の働きで明治30年(1897)5月に、市川~佐倉、6月に成東~銚子が開通した 。
牧野 萬右衛門(まきのまんうえもん)弘化4年 (1847)~大正10年(1921)明治9年(1876)、内外の商況視察のため横浜に行き、清国(現中国)の商人から落花生の需要が高いことや栽培状況の風土に適していることを悟り、落花生の種子を手に入れ千葉県で初めて栽培を始める。 明治22年(1889)に 、千葉県落花生商業組合が設立され 、初代組合長に就任 。落花生を千葉県内に広めた先駆者である。
牧野 萬右衛門(まきのまんうえもん)弘化4年 (1847)~大正10年(1921)明治9年(1876)、内外の商況視察のため横浜に行き、清国(現中国)の商人から落花生の需要が高いことや栽培状況の風土に適していることを悟り、落花生の種子を手に入れ千葉県で初めて栽培を始める。 明治22年(1889)に 、千葉県落花生商業組合が設立され 、初代組合長に就任 。落花生を千葉県内に広めた先駆者である。
北川千代(きたがわちよ)明治 27年(1894)~昭和40年(1965)大正から昭和期を代表する童話作家。 埼玉県大寄村(現深谷市)に生まれる。明治 38 年(1905)東京の私立三輪田高等女学校に入学、病弱で 3 年で中途退学。 明治 44 年(1911)「少女世界」に応募した小説「友情」が入選し、作家を志す。 大正 4 年(1915)プロレタリア作家江口渙と結婚。大正 11 年(1922)に離婚。 昭和 7 年(1932)に、深く愛し尊敬していた社会運動家(足尾銅山ストライキ指導者)の高野松太郎と再婚。良き伴侶、パートナーを得、自然に恵まれた蓮沼で生活する様になってから、執筆活動も波にのり、次々と作品の出版が続いた。 昭和 18 年(1943)、夫の松太郎が狭心症のため蓮沼の家で死去すると、最愛の人を看取ったこの地に永住することを決意。実子の居なかった千代は、親交のあった殿下区の屋根屋さんの孫娘(当時 7 歳)を養女として迎え、蓮沼村の村人に馴染んで生活していたが、昭和40年(1965)10月14日死去。辞世の句「種子一つ 残さで散りぬ 寒椿」10月24日、東京の菩提寺で市川房枝葬儀委員のもと、告別式がとり行われた。
北川千代(きたがわちよ)明治 27年(1894)~昭和40年(1965)大正から昭和期を代表する童話作家。 埼玉県大寄村(現深谷市)に生まれる。明治 38 年(1905)東京の私立三輪田高等女学校に入学、病弱で 3 年で中途退学。 明治 44 年(1911)「少女世界」に応募した小説「友情」が入選し、作家を志す。 大正 4 年(1915)プロレタリア作家江口渙と結婚。大正 11 年(1922)に離婚。 昭和 7 年(1932)に、深く愛し尊敬していた社会運動家(足尾銅山ストライキ指導者)の高野松太郎と再婚。良き伴侶、パートナーを得、自然に恵まれた蓮沼で生活する様になってから、執筆活動も波にのり、次々と作品の出版が続いた。 昭和 18 年(1943)、夫の松太郎が狭心症のため蓮沼の家で死去すると、最愛の人を看取ったこの地に永住することを決意。実子の居なかった千代は、親交のあった殿下区の屋根屋さんの孫娘(当時 7 歳)を養女として迎え、蓮沼村の村人に馴染んで生活していたが、昭和40年(1965)10月14日死去。辞世の句「種子一つ 残さで散りぬ 寒椿」10月24日、東京の菩提寺で市川房枝葬儀委員のもと、告別式がとり行われた。
斎藤 信夫(さいとう のぶお) 明治44(1911)年 ~昭 和 62(1987)年小学校の教員をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家。代表作は終戦直後に発表された「里の秋」。 明治 44 年 3 月 3 日、山武郡南郷村(現山武市)に生まれる。昭和 2 年千葉師範学校(現千葉大学教育学部)入学、昭和 6 年卒業。 昭和 4 年 5 月 17 日。山武郡大総尋常高等小学校で代用教員となる。 昭和7年以降、小学校教師として奉職しながらの詩作と投稿を続け、この頃投稿雑誌で知り合った海沼實と会う。太平洋戦争突入直後の昭和 16 年、「里の秋」の元となる「星月夜」を書き上げ海沼實に送る。戦後の 20 年 12 月 24 日「星月夜」の歌詞 1,2 番はそのままに、3番の歌詞のみを改めて「里の秋」と改題し、JOAK(現 NHK)でラジオ放送され大きな反響を呼んだ。その後も「蛙の笛」「夢のお馬車」「ばあや訪ねて」「母さんたずねて」等、昭和 62 年 9 月20 日に 76 歳で死去するまで、55 年に渡り自筆原稿ノート 65 冊に 11,127 編の童謡を作詞した(県内外 39 か所の校歌等含む)。信夫が残した数々の名作は今なお時代を超えて愛唱されている。
斎藤 信夫(さいとう のぶお) 明治44(1911)年 ~昭 和 62(1987)年小学校の教員をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家。代表作は終戦直後に発表された「里の秋」。 明治 44 年 3 月 3 日、山武郡南郷村(現山武市)に生まれる。昭和 2 年千葉師範学校(現千葉大学教育学部)入学、昭和 6 年卒業。 昭和 4 年 5 月 17 日。山武郡大総尋常高等小学校で代用教員となる。 昭和7年以降、小学校教師として奉職しながらの詩作と投稿を続け、この頃投稿雑誌で知り合った海沼實と会う。太平洋戦争突入直後の昭和 16 年、「里の秋」の元となる「星月夜」を書き上げ海沼實に送る。戦後の 20 年 12 月 24 日「星月夜」の歌詞 1,2 番はそのままに、3番の歌詞のみを改めて「里の秋」と改題し、JOAK(現 NHK)でラジオ放送され大きな反響を呼んだ。その後も「蛙の笛」「夢のお馬車」「ばあや訪ねて」「母さんたずねて」等、昭和 62 年 9 月20 日に 76 歳で死去するまで、55 年に渡り自筆原稿ノート 65 冊に 11,127 編の童謡を作詞した(県内外 39 か所の校歌等含む)。信夫が残した数々の名作は今なお時代を超えて愛唱されている。
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