考古用語辞典 A-Words

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陶磁器ー故宮  2008年08月04日(月)更新

陶磁器ー故宮
【和:とうじき
【中:Tao ci qi
基本用語|>陶磁器ー故宮

故宮博物院は、中国最大の古代芸術品の宝庫であり、百万点に近い所蔵品のうち陶磁器は三十数万点を占めている。陶磁器の大多数がもともと清朝宮廷に所蔵されていたもので、少数ではあるが後に寄贈されたり購入されたものもある。
宮延所蔵の陶磁器は宋代(960~1279)のものに遡る。宋代の朝廷はまずいくつかの良質の磁器を産する窯に命じて献上用の磁器を焼かせ、宮延で用いる磁器の量が増加するにつれて各地に無を作り、最も優れた陶工を集め、最も良質な原料や燃料を使い、監陶官(窯の経営を担当する政府の責任者)を派遣して宮廷用の磁器を専門に焼かせた。いわゆる「官窯」の出現である。官窯の磁器は焼かれると直接宮廷に送られ、商品として売ることは許されず、民間では使用することができなかった。
明代(1368~1644)初期には宮廷は大量の宋代の名窯の磁器を収蔵するに至った。宣徳3年(1428)に編まれた『宣徳鼎彝譜』には「内庫に柴(柴窯。後周く951~959〉の皇帝が河南省に開き青磁を焼いたとされる伝説的な中国初の官窯)、汝(汝窯。河南省で青磁を焼いた宋代の官窯)、官(官窯)、哥(哥窯。宋代の青磁の窯)、均(釣窯。宋~元代に河南省で独特の失透性の美しい―青い釉の陶磁器を焼いた窯)、定(定窯。河北省にあった宋代の代表的な白磁の窯)の各窯の器皿上を所蔵す。款式(様式)の典雅なる者、図に写して進呈す。(中略)其の柴、汝、 官、哥、均、定の中、亦選びて二十有九種(29種)を得る」とある。明(清代(1644~1911)には、朝廷はさらに景徳鎮(江西省にある中国最大の磁器産地で名前は北宋頃にはじまる)に御器廠(政府直営の磁器工場)を設け、大量に宮延用磁器を焼かせた。このようにして保存されてきた明、清代の官窯磁器に、もともと宮廷が所蔵していた明代以前の陶磁器を加えたものが現在の故宮博物院が所蔵する陶磁器コレクションの基礎となっている。唐代(618~907)の陶磁器は昔から「南青北白」といわれ、「南青」は南方の越州窯(漸江省北部を中心に広がる青磁の窯)をはじめとする青磁を指している。本展出品の越州窯の『青磁八角瓶』は器形、釉の色ともに1987年に陝西省扶風法門寺の地下宮から出土した秘色青磁である八角瓶とほぼ一致し、極めて貴重な作品である。宋代の窯業は非常に盛んであるが、窯は官窯と民窯(民間が経営する窯)の二つに分けることができる。本展出品の『白袖釉黒掻落唐子文枕』、『白釉牡丹文枕』、『褐釉梅瓶』、定窯の『白磁牡丹文鉢』などは当時の北方の民窯産の陶磁器の姿を伝えている。特に『白釉牡丹文枕』は清朝宮廷の旧蔵品であり、表の面に乾隆帝の詩が刻まれていることから乾隆帝の賞賛を得た枕であったことがわかる。
元代(1271~1368)以降、景徳鎮は次第に全国的な磁器生産の中心地となっていく。景徳鎮窯が創出した青花磁器(白地に酸化コバルトの絵具で文様を描き、その上に透明釉をかけて焼いて青い文様をあらわした磁器)は元代以降、中国陶磁における伝統的な作品となった。元代『青花蓮池水禽文大盤』は、直接手を使って食事をするという中東地域の習慣に合わせて作られた食器である。近年、考古学の発見と研究の進展にともない、明代の洪武年間(1368~1398)の磁器の様相が次第に明らかになりつつある。洪武年間作の『釉裏紅牡丹唐草文大盤』の扁平な菊花の文様や花びらを白く塗り残す装飾法はいずれも洪武磁器の特色を示している。明代の永楽年間(1403~1424)及び宣徳年間(1426~1435)には三宝太監と通称される鄭和(1371頃~1434頃。明代の武将。太監は鄭和の官職名)が7回にわたって西洋(東南アジア諸地域からアラビアさらにはアフリカ東海岸にまで及んだ)に赴き、外国との文化交流を促進させた(遠征艦隊の規模は壮大であり、第一回目が大船62隻に兵約2万8千という規模であった)。その際に鄭和の艦隊は永楽、宣徳の官窯青花磁器を土産として各地の訪間先に携えていったという。永楽年間の『青花菊弁文鶏心小碗』に見られる文様と宣徳年間の『青花龍涛文扁壺』の器形はともに西アジア的な性格のものである。
明代には郊壇(郊外に築かれた円い丘で皇帝が天と地をまつる祭祀を行う場所。冬至の時に南の郊外で天をまつり、夏至の時に北の郊外で地をまつった)での祭祀に用いる祭器はすべて磁器を用いることが定められ、宮廷はたびたび景徳鎮御器廠に紅袖釉、黄釉、白釉、藍釉(藍色の釉)の祭祀用の磁器を焼かせている。宣徳年間の『紅釉金彩高足杯』(No.81)と弘治年間(1488~1505)の『瑠璃釉金彩牛文双耳壺』(No.82)はともに当時の宮延が使った祭器である。
清代の景徳鎮窯の磁器は明代の基礎の上に新たな発展を遂げていく。『青花牡丹文瓶』は、鮮やかな発色、濃淡の使い分け、グラデーションを用いるという康熙年間(1662~1722)の青花の特徴がよくあらわれている。琺瑯彩磁器は、康熙年間の終わり頃から焼かれはじめ、雍正(1723~1735)、乾隆年間(1736~1795)に発展するが、これは宮廷の厳しい管理のもとで生産された皇室専用の磁器である。まず景徳鎮の御器廠で文様を施していない白磁が焼かれる。これが清朝宮廷の内務府(王室のいっさいの事務管理をする官庁で日本の宮内庁にあたる)に所属する造辧処という部署にあった琺瑯作という工房に運ばれ、宮廷画家によって絵が描かれたのちに焼きつけが行われ、完成となった。康熙年間の琺瑯彩磁器である『黄地粉彩牡丹文碗』は初期の琺瑯彩磁器が銅胎七宝(銅の地に施す七宝の技法)に倣って作られたことをしめしている。(七宝は中国では琺瑯といい、琺瑯彩は西洋の七宝の技法を取り入れて創出された。この作品の濃艶な色調などに七宝に近い感覚が残っている。)
粉彩磁器(粉彩は西洋の七宝の技法を取り入れた絵付技法で、グラデーションや細密な描写、微妙な色彩表現を特色とする。特に宮中で作られたものを琺瑯彩とよぶ)は康熙年間の終わり頃に焼かれはじめ、雍正、乾隆年間に広く焼造された。乾隆年間の『粉彩三唐子瓶』は、清朝の档案(政府の公式文書)の中の『乾隆記事』によると、乾隆20年(1755)に皇帝の命によって焼かれた作品である。本来の豆彩磁器(釉の下に青花で文様の輪郭を描き、釉を施したのちに輪郭にそって緑色を主調にした淡い調子の色絵を施した磁器)、明代成化年間(1465~1487)に焼かれはじめている。清代の豆彩磁器は明代の基礎の上に発展したもので、絵付が正確になり、雍正年間以降は粉彩の技法が取り入れられている。嘉慶年間(1796~1820)の『豆彩牡丹唐草文瓶』はこうした特徴をよくそなえている。出所:北京・故宮博物館名宝展-紫禁城と中国4000年の美の秘宝

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