よみがえる四川文明

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よみがえる四川文明 2007.06.15更新

オンライン講座概要 講師:鶴間和幸 学習院大学文学部教授 
はじめに: 近年、中国・四川省に国宝級の文物が次々と発見されている遺跡は、黄河文明に匹敵する長江上流の古代文明として、考古学上、極めて高い評価を受けている。約三千年以上前から二千三百年前に花開いた古代蜀(しょく)文明:三星堆(さんせいたい)と金沙(きんさ)遺跡

よみがえる四川文明

 古代蜀/貴重な遺跡発見相次ぐ

金沙遺跡

四十八万平方キロの面積と八千五百万の人口を擁する広大な四川省、歴史的には巴(は)蜀と呼ばれている。面積は日本の一・三倍、人口は直轄市の重慶を含めれば、一億を超える。一つの国家といってもよいほどの広大な地域だ。
 巴と蜀とはそこに居住していた人々の呼称で、巴は四川省東部、蜀は西部、現在の都市でいえば、その中心は重慶と成都である。今回の展覧会はその古代の蜀とその周辺に焦点を当てた。
 蜀の字形は、カイコを表すともいわれている。ちなみに巴はヘビの形である。この蜀の地から一九八六年に三星堆遺跡、二〇〇一年に金沙遺跡、二〇〇〇年に大型船棺(せんかん)遺跡と次々と重要な発見が相次ぎ、古代の四川の文明の歴史がよみがえった。
 三国時代、劉備と諸葛孔明の蜀は三世紀、いまから千八百年前のことで、劉邦の国も蜀漢から起こり、漢帝国をうち立てたのは、紀元前三世紀の末、いまから二千二百年前のことであった。始皇帝よりも四代前の恵文王の時代、秦は蜀を滅ぼした。いまから二千三百年前のことである。
 さらにいまから三千年前、周の武王が殷(いん)を滅ぼしたときに、討伐軍の中に確かに蜀が加わっていた。この三千年前の殷周交替期から二千三百年前の戦国時代までの空白の歴史が、三つの遺跡によって明らかになった。蜀の歴史を記した「華陽国志」は三世紀のものである。秦に滅ぼされた蜀の歴史を語っているが、断片でしかない。また書き手は蜀に植民した漢の人たちであった。失われた蜀の文明は考古学的な発見によってよみがえった。
 蜀の地は岷江(びんこう)という河川が平原に流れた土地にある。現在の成都も水の都といってよいほど岷江から引いた水路が街をめぐる。平原にそそぐ入口には世界遺産にも登録された都江堰の水利施設があり、蜀の生命線になっている。都江堰がなければ、扇状地上の成都は、水を恩恵を受けることも、また洪水の危険を免れることもできなかった。さらに上流には、黄龍や九寨溝(きゅうさいこう)といった世界遺産に登録された自然の森林の美しさを見ることができる。原生林と豊富な水、湖沼が散在し、まさに四川省の秘境である。現在絶滅の危機に瀕したパンダも、こうした豊かな四川の自然のなかで生き延びてきた貴重な動物である。

 舞台/隔絶された「四塞の地」

四川省を流れる岷江


紀後半には長江流域でも新発見が相次いだ。小麦と稲の文化圏として南北に分けず、中国文明という大きな親文明の中で、地域文明を考えた方がよい。
 中国文明という親文明は一色ではない。むしろきっちりした枠組みがなく、多様なものを受け入れる地域文明の集合だ。四川文明もその地域文明の一つだ。六千三百キロにもおよぶ長江流域は、一つの文化圏にはならなかった。地形的にも隔絶した四川盆地は、古来四塞(しさい)の地と呼ばれてきた。
 北は秦嶺山脈、東は長江の三峡、西はチベット高原、南は雲南、貴州の雲貴高原、四川文明は周辺世界と関係を持ちながらも、四川盆地を舞台に相対的に自立した文明を生み出した。
 中国料理の中の四川料理は、山椒(さんしょう)のしびれるようなマー(麻)と唐辛子の辛さ(ラー)が適度に混ざった独特なものである。麻婆(マーボー)豆腐、火鍋(ひなべ)、担々麺(タンタンメン)、回鍋肉(ホエクオロウ)、鍋巴(クオパ・おこげのあんかけ)など多くの人々に親しまれている。
 しかし古代の蜀にはマーラーの味はなかった。唐辛子はなかったし、油と鉄鍋と強いコークスの火力で一気に炒めたり、揚げたりする料理は宋代以降の新しいものであるからだ。四川文明を探る面白さは、現代とは違う古代の四川料理を探っていくようなものであろうか。 

三星堆/蜀の祭祀と宇宙観象徴

三星堆・2号祭祀坑での金面人頭像の発掘状況


三星堆遺跡は、二つの小さな坑に青銅器、金器、玉器、象牙などが破壊されて投げ入れてあった。二号坑の発掘時の様子から、わずか二・五メートル、五メートル、深さ一・六メートルの小さな孔にどのように器物を投げ込んだのかが再現できる。
 現場検証のように細かく観察すると、千四百以上の金、青銅、玉、石、骨と四千六百枚の貝のうち最初に投げ込んだのは小獣面、玉器、その後に大獣仮面、二メートル以上ある立人像は胴体で折り曲げて三分し、そのまま別々に投げ入れた。その上に神樹も細かく切り離して投げ、四十にも上る人頭像の首を坑全体にばらばらに投げつけている。
 一号坑の黄金の杖(つえ)も引き裂かれていた。故意に壊して坑に投げ入れたものであった。その後の金沙遺跡の発見によって、三星堆遺跡の意義は蜀の全体の歴史から見直すことができるようになった。
 発見当初は、とにかく縦目の巨大な獣面の異様な姿に圧倒された。立人像の大きさとそのポーズにも魅せられた。黄金のマスクの人頭像も、中原では見たこともない。発掘から十七年、いつ見ても驚きには変わりないが、四川文明の遺産として冷静に見ることができるようになった。
 小さな神壇は、破壊されて一部しか残されていないが、蜀の祭祀(さいし)の世界と宇宙観が、見事に表現されている。三星堆の二つの坑から出土した青銅器、玉器がどのような器物であるのかを探るヒントはこの神壇にある。
 「華陽国志」には古代蜀の王朝の交代が簡単に記されている。蜀侯蚕叢(さんそう・カイコ)にはじまり、柏潅(はっかん・水鳥)、魚鳧(ぎょふ・カモ)、杜宇(ホトトギス)と続き、その後、長江中流の楚の地から入った鼈霊(べつれい・スッポン)が治水に成功して禅譲され、開明帝となった。奇妙な名の王が登場するが、ここには成都平原の各地の勢力の交代が見て取れる。
 魚鳧から杜宇の交代の後、開明への王位の継承は、地域の移動を伴っていた。三星堆遺跡から成都市の金沙や船棺(せんかん)遺跡へは、勢力の交代として位置づけられるが、同時に四川文明の遺産が伝統として引き継がれていった。 

黄金の出土品/他を圧倒する仮面の輝き

三星堆遺跡から出土した金面人頭像


腐食することのない黄金の輝きは永遠である。長江上流の金沙江も、金沙遺跡の金沙も、砂金の産出する土地を表している。地下深く岩石に混じった微粒の金が、風化作用によって地上の河床に堆積(たいせき)する。古代の蜀の人々も、その自然の恩恵に気付き、黄金に魅せられた。
 三星堆一号坑からは金杖(きんじょう)、黄金仮面の金箔(きんぱく)、虎の形をした黄金の飾りが出土した。二号坑からも、小さくても多くの黄金が出てきた。微量でも輝きは同じだ。金の性質はたたいて伸ばせば十万分の一ミリまで薄く、一グラムの金でも伸ばせば三千七百メートルまで長くなる。わずかな金箔でも青銅製の人頭に張り付ければ、黄金仮面として他の多くの人頭像を圧倒してしまう。
 金沙遺跡からも黄金仮面、黄金の冠、太陽と鳥の飾り、蛙(カエル)の形の飾りなどが出土した。黄金仮面は小さいが、希少な黄金だけにかえって輝いて見える。太陽と鳥の円形飾りは、切り絵細工のためにやや厚めのものだ。四羽描くことによって、一羽の鳳凰(ほうおう)が太陽を巡っている動きが表現されている。切り抜いた太陽は、黄金だからこそ輝きが伝わってくる。
 金杖と金冠は古代蜀の王のシンボルかもしれない。杖(つえ)は持ち手の顔にまで届く長さだ。金冠もちょうど頭に戴(いただ)くことができる。蜀侯蚕叢(さんそう・カイコ)にはじまり、柏潅(はっかん・カワウなどの水鳥)、魚鳧(ぎょふ・カモなどの水鳥)、杜宇(ホトトギス)とつづき、その後、長江中流の楚の地から入った鼈霊(べつれい・スッポン)が治水に成功して禅譲され、開明帝となった。金杖と金冠の主はこのなかの誰であったのだろうか。
 金杖に打ち出した図柄は、地味な細工で見にくい。矢が水鳥と魚を打ち抜いている。金沙の金冠も不思議と同じ図案だ。持つ者だけが確認できればよかった。カワウを表現した水鳥と魚は柏潅と魚鳧であろうか。杖の先を故意に叩かなければ歪(ゆが)みや裂け目はできない。木製部分が自然に腐食したわけではない。王権のシンボルに何があったのだろうか。 

金沙遺跡/受け継がれる祭祀の世界

船棺遺跡の出土状況


金沙遺跡では、うってかわって小さな世界だ。成都市西郊の金沙で発見された遺跡は、三星堆遺跡よりも少し下る時期のものである。金沙遺跡の発見によって、三星堆遺跡の意味もようくわかるようになった。
 磨底河という川の両岸には三平方キロにおよぶ遺跡があり、中原では殷周時代に相当する。地上建築遺跡や墓地のほか、祭祀(さいし)遺跡では玉器、石器、銅器、象牙、シカの角などが発見された。黄金の小仮面と青銅の立人像は、小さな世界の代表である。
 わずか四センチほどの黄金の輝き、三星堆の黄金のマスクの人頭像のように、これも小さな人頭像にかぶせられていたのだろうか。三星堆の実物大の立人像に比べるとミニチュアだが、手は同じような祈りや踊りのポーズをとっている。王朝が交代したとしても、蜀の祭祀の世界は三星堆から金沙へとしっかりと受け継がれていることがわかる。
 鳥と魚と猛獣と太陽、金沙の人々を取り巻く自然の世界が一つ一つの文物に表現されている。祭祀の犠牲になった人々の姿は石像に表現されている。悲しげな表情が伝わってくる。
 成都市内商業街の大型船棺墓葬は、現在の成都市内の中心部にある。開明帝以降、成都に入り、秦に滅ぼされるまで、蜀王の拠点であった。
 三十メートル、二十メートルの範囲に、わずか二・五メートルの深さの所に十七件の木製の棺がならべられていた。うち九件が船型木棺、八件が木彫りの木棺である。戦国時代には地下深くに墓室を作り、地上に墳丘を築きあげる墓葬が全国に広がってきたが、まったく様相を異にする埋葬施設である。クスノキの大木をまるのまま使用し、船の形に彫り込んだ棺には圧倒される。これらの大型船棺に蜀王が埋葬されていたのだろうか。
 遺体と副葬品を詰めた部分は船室、船首にあたる部分は細くなっており、水を切って進めるようにせり上がっている。植物の種子と漆器は旅立つ死者のために、船棺に食糧を積み込んだ。蜀が絹の産地であるとともに漆器の生産地であったことを再認識できた。
 漆器の太鼓とばちや、ひょうたん製の笛からは蜀の音楽が聞こえてきそうだ。蜀の人々はこの埋葬施設の上ではどのようなお祭りをしていたのだろうか。

参考書籍

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