中国で発見された古代のガラス

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中国で発見された古代のガラス 2007.06.24更新

オンライン講座概要 講師:殷稼 中国文物センター 副主任
前書き: 人類が21世紀を迎えようとしているいま、ガラスは現代生活のすみずみにまで浸透している。ガラスの発明と製造は長い歴史をもっている。いまから約4000年前のメソポタミアとエジプトにおいて、当時の青銅器冶金技術の向上と高温の獲得にともない、ガラス質を包含する鉱物や原料の存在が人々の知見にのぼるようになった。そしてさらにそれらを力田正してみると、最初のガラス珠やガラス製品が誕生することになったのである。現在知られている最古のガラスは南メソポタミアで発見された紀元前23世紀のガラス棒、紀元前21世紀のガラス塊および紀元前19世紀のガラス印章であるといわれている。その後ガラス容器も製造されるようになったが、以来1000〜2000年の間にガラス製造技術は西アジアとエジプトから地中海世界へ広がり、発達をとげていった。およそ紀元前1世紀前後に、ローマでは口吹き成形によるガラスの製造技法が登場し、長く受け継がれることになった。そしてのちのペルシャのササン王朝やアラブ地域のイスラム教の国々においてガラス製品の生産は盛んになり、独特の特色を備えていった。ガラスの出現とその技術の発展と伝播は長くて複雑な過程をたどっていたが、各時期を通じてガラス製品は交易や人的な交流により世界各地にもたらされ、その多くは今日まで伝わってきたのである。

中国で発見された古代のガラス

 最古のガラス

トンボ珠

中国において商代と周代にはすでに高度に発達した青銅製造業が成立していたことが知られている。それで、青銅冶金技術の発達にともなってガラスも登場していたのではないかという問題が提起されているわけである。一部の学者は商時代[紀元前16〜11世紀]には中国ではすでに最初のガラスを生産する台と力があったと推測しているが、いうまでもなくこのような主張は今後、遺物による裏付けを必要としているのである。
いまのところ、中国で発見された最古のガラスは河南省洛陽、東西省の宝鶏、周原、西安などで出土した1000点以上の西周時代[紀元前11〜8世紀]のガラス管、珠および板である。ある学者はそれらの遺物を中国で生産された鉛を含む初期のガラスと考えているが、それらを古代エジプトのフアイアンスと似たもので本格的なガラスではないと主張する学者もいる。この論争はいまのところまだ明確な結論に至っていない。学界で一致して認められている中国における最初の本格的なガラス製品は春秋時代末期から戦国時代[紀元前5〜3世紀]の間に登場したものである。それらのガラス製品はおもに儀式関係の道具、たとえば壁、坂、剣具、印章および装飾品としての珠、管、環などの類であり、その数は千以上に上るという。そしてそれらのガラス製品の出土地は甘粛省、遼寧省、河北省、山西省、山東省、河南省、湖南省、四川省、安徽省、福建省、広東省など、広範囲にわたっている。そのうち重要な発見としては、湖南省から出土した100点ほどのガラス壁、湖北省で発見された越工勾践剣にはめ込まれたガラス、随州曽侯乙墓から出土したガラス味飾りなどがあげられる。それらのガラス製品のうち、比較的大きなものは鋳型で成形されているが、味飾りのようにより刀ヽさなものは糸巻き技法によって作られた。なおその成分も西アジア世界のアルカリ石灰ガラスと異なり、鉛とバリウムをより多く包含している。ここで指摘すべきことは、西アジアと中央アジアおよびヨーロッパにおいてしばしば発見される多色リングを嵌め込んだガラス株が中国で戦国時代の墓からよく出土していることである(たとえば、今回の出品の中に中山王墓の陪塚から出土した円点紋様をもつガラス珠がそれである)。これらのガラス珠は中国では普通トンボ珠と呼ばれているが、成分分析の結果によれば、これらのガラス製品には西方のようなアルカリ石灰ガラスもあれば、中国の鉛とバリウムを帯びるものもあることがわかる。この結果は、戦国時代には中国はすでに西方と異なるガラス製品を自力で生産することができるようになり、そして当時西方からガラスが輸入されてはいたが、中国も西方の製品と似たものを作っていた、ということを示している。

 漢代

漢代になると、ガラスの生産は戦国時代の伝統を受け継ぎ、大きく発展した。陳西省、湖南省、広東省と広西壮族自治区における前漢時代の墓から玉器を模倣したガラス壁が発見されている。一方、珠飾りは依然として大量生産の対象であり、湖南省と広西壮族自治区から出土したものだけでも万単位で数えられている。しかし、この時期にはトンボ珠はあまり見られなくなり、かわりにガラスの耳飾りが増えていった。そのほかにも新しいガラス製品が数多く登場するようになった。例をあげると、湖南省で発見されたガラス矛、広東省で出土したガラス帯釣(ベルト留め金具)、広州市の南越王墓から出たガラス牌飾、山東省即墨県で発見したガラス馨(古代楽器の一種)、江蘇省の徐州市で出土したガラス豚、そして同じく江蘇省の揚州市で発見した600点あまりの玉衣のイヽ板に似せたガラス小板などがある。この時代になってガラス容器も作られるようになった。たとえば、河北省満城県の漢代中山王劉勝の墓から発見されたガラス盤、耳杯:江蘇省徐州市楚王墓から出た数点のガラス杯;広西壮族自治区で出土した十数点のガラス杯、皿および碗、などがそれである。それらの製品はいずれも鋳型による成形のものである。劉勝墓出上の遺物の原料は中国の伝統的な鉛とバリウムを含むガラスであり、単色で玉器とよく似ている。また広西壮族自治区のそれは中国の伝統とも西方の伝統とも異なり、その成分には酸化シリコンのほかにカリウムが多く含まれ、透明度も比較的高い。ある学者は広東省と広西壮族自治区におけるガラス製品はその現地および近辺において作られていたと考えている。
漢代の文献にガラスに関する記載が登場しはじめ、当時、ガラスは一般的に「壁流離」や「琉璃Jと呼ばれていた。張零が西域へ行くようになったため、シルクロードを往来した東西の交易はますます盛んになり、その結果ローマ帝国のガラス製品が中国に輸入されるようになったのである。
中国で発見された最古のローマ製のガラスは江蘇省千日江市にある後漢時代広陵工劉荊墓から検出されたローマンガラス鉢のかけらである。そして河南省洛陽の後漢時代の墓からも完全な形で立派なローマンガラスの瓶が出土している。一方、中国のガラス器も外国へ輸出するようになった。たとえば日本や東南アジアにおいて漢からの輸入品と思われるガラス器が発見されているという。

魏晋南北朝

魏晋南北朝時代に属する中国のガラス器は西方からの輸入品が多い。ローマから輸入されたとされるガラス器としては、南京市象山7号東晋基からのガラス杯;遼寧省北票県、北燕の海素弟墓から発見されたカモ形のガラス器、碗、杯および鉢:河北省景県北朝の封氏墓から出土したガラス碗などがあげられる。一方、ササン朝のガラス容器としては、北京近郊の西晋時代の華芳基、湖北省岩口城の西晋墓、山西省大同市の北魏墓、江蘇省鎮江市の六朝基、寧夏回族自治区回原の北周時代の李賢墓などから発見された浮出切子のあるガラス碗が知られている。これらのローマ、ササン朝のガラス器は製作技術が精巧であり、いずれも貴族や高級官僚の墓に副葬されていた。このことはこれらのガラス器が当時に
おいては非常に珍しく高級なものであったことを示している。なかでもササン朝の切子ガラス碗は日本の正倉院に収蔵されている有名な白瑠璃碗、新沢千塚126号墓のガラス碗および伝安閑陵出土のガラス碗とよく似ており、当時のササン朝のガラス容器が中国を経由して日本に輸入されてきたことを示唆している。
この時代に属するガラス容器としてさらに注目すべきは河北省定県の北魏時代の仏塔の基壇下から発見された7点の遺物である。そのいずれも西方の笛吹き成形技術による製品である。ある学者はこれらのガラス製品は中央アジア地方の技術者が北魏の都の大同で作ったものと考えている。即ち、この時期に西方の笛吹き成形技術が中国に伝わったというわけである。

隋唐

隋王朝は短命であったが、現在までのところ、隋代に属するガラス器が7回にわたり計16点発見されており、そのほとんどは中国で作られたもので主に西安近辺で出土している。なかでも李静訓墓から発見されたガラス瓶、杯、全、卵形器などの8点のガラス器が最も注目すべきものである。それらは緑がかった色をして透明度が高く、造形的にも精巧である。ガラスの成分は高鉛ガラスとアルカリ石灰ガラスである。この発見は、当時隋王朝の宮廷で働いていた中央アジア出身の官僚である何桐という人物がガラス製品を作っていたという文献言己録を裏付けるものである。このように東西交流の進展にしたがい、中国では唐代になってアルカリ石灰ガラスが登場するようになり、そして製造技術の面では西アジアのような吹年による成形の技法も導入されたのである。
唐代に関しては、中国におけるガラス容器は二種類に大別できる。一つは主に皇族や高官貴族たちの墓から発見された瓶や杯などの類である。その成分は高鉛ガラスとアルカリ石灰ガラスである。そしてもう一つは陵西省、甘粛省などにある一部の寺院仏塔の基壇内に埋納されていたガラス舎利瓶やガラス製供物である。これらのガラス製品は隋代の伝統を受け継いだが、小型のものがほとんどである。一方、唐代の遺跡からササン朝のガラス製品がしばしば発見される。たとえば、河南省洛陽にある唐墓から出土したガラス瓶や西安近郊の何家村から発見された表面に貼付連環文のあるガラス碗がそれである。特に後者の文様は日本の正倉院に収蔵されている環文をもつ紺瑠璃杯と似ている。
唐代晩期のガラス容器に関する重要な発見は陳西省扶風県法門寺地下宮殿から出土したイスラム風ガラス容器である。そのほかに内蒙古自治区の奈曼旗の遼代陳回公主基、遼寧省朝陽市の速代歌延毅墓、天津市純県遼代独楽寺白塔、河北省定県未代静志寺仏塔の基壇、浙江省瑞安県宋代慧光仏塔、安徽省無為県の宋代仏塔などから多数のイスラム風のガラス容器が発見されている。統計によると、これまで中国において発見されているイスラム風のガラス容器はすでに40点を超えており、その多くは傑作で国宝級のものさえある。そしてそれらのガラス容器はさまざまな装飾が施され、年代も明確なので、イスラム風ガラス容器を研究する上で重要な意味をもっている。

ところでこれまで発見された宋代のガラス器は前述のイスラム風のもののほかに、甘粛省、北京市、河北省、河南省、安徽省、江蘇省、浙江省などにおける寺院の仏塔基壇から出たガラス供物、および湖南省、浙江省と江蘇省などで発見された装飾品などもあげられる。仏塔の基壇下から出土した遺物の多くはガラスのヒョウタン形の瓶であり、河北省定県の出土品だけでも40点あまりとなっている。そのほかに碗、杯、壷形の鼎、鳥形容器、卵形容器および葡萄串形製品などもあり、そのほとんどは小型で薄い高鉛ガラスからできたものである。一方、宋代の文献の中にもガラスの製作に関する記載が少なくない。当時、ガラス生産はすでに宮廷の独占から民間へ普及していた。こうした変化は生産量の向上をもたらしたが、質の面では隋唐時代のものに及ばない。
唐宋時代における中国製のガラスは依然として鉛ガラスがその中心であった。鉛ガラスは原材料と技術などの要因から強度が低いためほとんど小型の玩具や仏塔に埋納する器物を作るのに用いられており、大型で実用的な容器はめったにみられない。

元明清

元代のガラス容器の傑作は甘粛省淳県にある江世顕墓から出土した素晴らしい青ガラスの蓮華形托豊(受皿)である。元代において顔神鎮(現在の山東省溶博市)は北部中国における最大のガラス生産基地となり、明、清時代まで操業が続けられていた。そこからの製品は博山琉璃と呼ばれ、カリウムとカルシウムを含むガラスを使い装飾品や玩具などを作ることが主であった。明清代になって、北京に料器業が登場した。業者は顔神鎮からガラスの半製品を調達し、高温でそれを置飾物に加工して販売していた。そしてこれらのガラス製品はのちに引ヒ京料器と呼ばれるようになった。清代にはガラス生産基地は二つあり、北は顔神鎮で南は広州であった。康熙帝の在位中、宮廷は造弁処ガラス工場を設立した。そこで用いられた技法は中国各地のものをベースにヨーロッパの技術も取り入れたものであり、独自の特色を産み出していた。工場はもっぱら皇室専用の置飾品や玩具類を生産し、その種類がさまざまでバラエティーに富んでいた。そればかりではなく、技術者たちは多種多様な装飾技法をも開発した。乾隆時代には料器風のガラス容器が非常に流行しており、外国には乾隆ガラスとして知られていた。
中国で発見された古代のガラスは中国におけるガラスの製造と生産の歴史が長く、しかも独自の系統をもつことを示している。そしてその製品は主に有鉛ガラスを使ったものである。ガラス製品は繁栄、衰退、また復興という紆余曲折をたどりながらも堅実な発展を続けてきた。それが最終的に中国における主要な産業にならなかったのは原料や用途などの面に原因があったからであろうが、中国古代における陶磁器の発達とも関係があったかもしれない。一方、中国で発見されたローマ、ササン朝、イスラム教の国々のガラスは、東西交易の繁栄ぶりのみならず、西方のガラス製造技法が中国に与えた影響をも裏付けている。そしてそれらの遺物は世界の古代ガラスを研究するのに貴重な資料を提供しつづけているのである。

参考書籍

謎を秘めた古代ビーズ再現―ビーズの孔からのぞいた日本とアフリカ古代ガラスの技と美―現代作家による挑戦古代ガラス―銀化と彩り東洋古代ガラス―東西交渉史の視点から (1980年)香水瓶―古代からアール・デコ、モードの時代まで古代ガラス (1980年)古代ガラス―H氏の場合エジプトの古代ガラス (1985年)
  

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