詳実無比、本格的諸葛亮伝

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詳実無比、本格的諸葛亮
     書評:朱大渭・梁満倉著 『武侯春秋上・下』1998年2008.08.15更新

オンライン講座概要 講師:中村圭爾(大阪市立大学 教授・副学長)

出所:「東方」2000年227号

前書き: 書評:朱大渭・梁満倉著 『武侯春秋上・下』1998年
「確かな真実と、生き生きとした内容、高度な思想性をもつ、新しい諸葛亮の伝記」(引言)を、という著者たちの目的は見事に達せられたというべきであろう。六五万字、全十二章の大冊に描きあげられた諸葛亮の生涯と、かれをめぐる人物群像、三国の歴史環境は、歴史学と歴史叙述の醍醐味を堪能させてくれる。

詳実無比、本格的諸葛亮伝

 

古隆中 ?葛亮

著者は碩学、気鋭二人の魏晋南北朝史専門家。朱大渭氏は社会科学院歴史研究所魏晋南北朝史研究室主任や、中国魏晋南北朝史学会会長を歴任された、当代を代表する魏晋南北朝史研究者の一人で、最近の専著『六朝史論』、編者『百巻本中国史』魏晋南北朝史巻のほか、農民戦争、軍事史、社会生活史など、幅広い分野で編者をだしておられ、ご存知の方も少なくないはずである。梁満倉氏も同じく社会科学院歴史研究所に在籍、魏晋南北朝の習俗、社会生活などで朱氏との共同編著もある、この分野の専門家である。二人の経歴や専門の業績からして、本書がまったくの歴史学の立場からした諸葛亮伝であることに疑いの余地はない。
さてその内容だが、それぞれに「沂水竜吟」「十年砥礪」「宏図初展」「覇業芻成」「得益失荊」「夢断夷陵」「励精図治」「南撫夷越」「殫精竭智」「軍事奇才」「立身治家」「淵遠流長」という典雅な章題を付けられた全十二章は、前九章で、出生と荊州への流寓、荊州生活と劉備との邂逅、赤壁から荊州経営、入蜀、漢中奪取と関羽敗亡、夷陵の敗戦、蜀の統治、南中遠征、北伐と死、の九段階にわけた諸葛亮
の歩みを跡づけ、後三章で、かれの軍事関係の事跡とひととなりや、功業・失策、歴史上の評価を詳説する。その壮大な構成と詳細な筆致は直接本書に就いてみられたいが、何よりも通俗や憶測の説、迎合の論を排し、史料に基づき、客観的かつ論理的に推断を加えてゆくその手法と結論は、説得力に富み、同期的な諸葛亮伝といえる。
そのなかには数々の独自の主張や創見がある。三国時代史に特に著名な若干の事件や史実、歴史解釈について、その一部を紹介してみよう。
まずは、赤壁前夜の当陽長坂の戦についてだが、劉備の壊減的敗戦は、通俗的には大量の非戦闘員の帯同による緩慢な退避行動が原因のように語られる。しかし、本書はそれを戦略戦術の誤りによるとする。すなわち、戦略的には、劉備たちが江陵を目指したのが誤りであって、江陵は兵家のいう「争地」、すなわち曹操も当然目指すはずの荊州の重鎮であり、それが曹操の一昼夜三百里を駆け抜ける急追をまねいたのである。また戦術的には、関羽精甲万人の水軍と分れたのが誤りで、それが曹操の精騎僅か五千に大敗した原因であるという。うなずける説明ではなかろうか。
劉備失意の死を結果した夷陵の戦いについての諸葛亮の態度は、古来議論の的であるが、本書は劉備も諸葛亮もこの時点では天下統一の戦略たる「隆中対」を堅持していたはずで、従ってその基本戦略である荊益跨有の実現のためにも、諸葛亮はこの戦役に賛成したはずと断言する。また荊州重視の「隆中対」に対して、雍涼視の戦略を持つ龐統、法正らは当然反対したはずだが、すでにこの世になかったのも、この戦が強行された原因であるともいう。著者はここではふれていないが、『三国志』諸葛亮伝は、建安二六年(章武元年、二二一)の諸葛亮の丞相就任、張飛の死を述べた後、ただちに章武三年の劉備の臨終に記事がとんでいて、夷陵の戦いの期間の記事が一切ない。それが何を意味するかは、夷陵の戦いの責任の所在と、『三国志』における諸葛亮評価にかかわるはずであり、本書はこの点において示唆に富む見解を出したことになる。
その夷陵の戦いを劉備に発動させることになった諸葛亮の「隆中対」は、千古の名戦略としてあまりに有名であるが、その欠陥と、夷陵の戦いの後の戦略転換について、本書の見解は説得性に富む。まずその欠陥についていえば、その核心の跨有荊益は、地理的条件からみて、荊益の間の連絡が、荊揚の間の連絡よりはるかに困難であったことに加えて、孫権側の戦略との矛盾が存在したところに問題がある。

 

 

そして、最終的な荊州の喪失は、「隆中対」の中心的戦略である秦川と荊州の二方面からの魏攻撃を不可能のものとし、諸葛亮に対魏戦略の変更を余儀なくさせた。対魏攻撃の二路のうち、 一路は呉の協力を得ざるを得なくなり、 一方で荊州に匹敵する強固な根拠地の獲得が不可欠となった。
北伐の戦略は、このような条件のもとに形成されたもので、それは関隴を奪取することを主眼とした。その所以は、 一に関隴は人馬物産に富み、国力において魏呉に劣る蜀漢の新たな版図となり得、二に関隴は歴代諸勢力の中原進出の拠点であったからである。かくて北伐の進路は、祁山、陳倉方面をめざし、隴右に勢力の浸透を図ったものであり、最後の北伐が、褒斜道から出たのも、魏の関隴軍事力の主力である司馬懿軍の殲滅と、隴右関中間の交通の遮断を意図したからであったという。北伐についても、しばしば出ては引き、必ずしも赫々たる戦果が挙げられたようにみえないところから、かねてその意図をめぐって諸説あるが、本書の説が最も史実に近いように思う。
北伐における最大の誤算たる馬謖の敗戦は、水道を断たれたのが直接の原因であるが、本書説では、戦術的にいえば、馬謖が自己の戦略位置を誤認したことにはじまる。すなわち、街亭は関中より隴西への交通の要衝で、かれの任務は魏軍の関中からの援軍をここで阻止すること、すなわち守戦にあった。交通の要衝での防御戦は、堅固な要塞に拠るのが常道で、従って、馬謖本隊は街亭附近の要害列柳城に籠って守御すべきであったのである。しかるに、副将高詳に列柳城を委ね、自らは高みに布陣して掎角の勢をなしたのは攻撃体制に他ならず、ために老練な張郃に両者が分断されたうえ、馬謖本隊は水道を断たれ、高詳は名将邦准に敵しようはずもなく、最後に張郭合勢しての攻撃に馬謖本隊が敗れたのも当然であるという。軍事史に通暁した朱氏ならではの説といえよう。
以上は本書独自の解釈や見解を、人口に膾炙した三国時代史の、とくに著名な場面について紹介したにすぎない。単なる偉人伝ではなく、歴史学の著作として、本書は三国の政治、社会経済、歴史地理、文化現象、周辺諸民族などについても、かなりの紙幅を割き、その部分に見るべきものが多い。 一二の例を挙げよう。
その一つは、第六章の、夷陵の戦いの時期の蜀呉の国力の優劣を比較した部分である。政治・経済・軍事・外交の四方面からその比較がなされているが、主旨は、政治方面においては、蜀が建国直後で、客主の関係が十分には融合していなかったのに対し、呉は孫堅以来三十年を経過して君臣関係が緊密であり、経済方面では、呉では農業や手工業がかなり発展し、蜀も農業重視であったが、ただ客観的にみるとその領域の大小、経済的条件からして、呉の優位が否定できないこと、軍事方面については、兵の多寡、強弱の基礎である人口が夷陵の戦時、九〇万と二三〇万であることからして、当然呉が優位であったこと、外交方面は、呉が魏と君臣関係を結んで連係していたのに対して、蜀は孤立せざるを得なかったというもので、これらは通俗的見解と大差ないが、しかしこの主旨を裏付ける歴史的諸現象の分析は、じつに実証的であり、歴史学の面目を施すものといえる。
また、南中遠征を記す第八章は、西商夷の始祖神話から始めてその秦漢にいたる歴史を述べ、すぐれた少数民族史、辺境開発史となっているし、蜀漢軍と南中反抗勢力との戦闘についての地理関係記載は、この地の地理を知悉したものにしてはじめて可能であろうほどに具体的かつ詳細である。
後三章もまた、異彩を放っている。第十章には、陳寿以来喧しい諸葛亮の軍事家としての力量についての評価や、有名な八陣図、木牛流馬の解説がある。例えば、八陣図とは何か、詳しくは本文を読まれたいが、それに基づく八障の戦法が、車乗で防御陣を組み、強弩を用いる対騎兵戦の戦法であるという説など、世人の注目を大いに集めるであろう。木牛流馬についての、機械工学的説明も興味深い。第十一章での諸葛亮個人の修身養徳は、かれの別の一面を示してくれるし、第十二章における、後世の諸葛亮評価の紹介も周到という他はない。
このように、本書は単なる諸葛亮伝ではなく、あらゆる歴史現象に説き及んだすぐれた三国時代史でもある。しかし、その文章は、歴史学的著作にありがちな客観的スタイルを離れ、たいへん躍動的であり、またその叙述には、 一方で偉人諸葛亮への熱い思いが満ちていて、それが一般的な歴史学的著作にない魅力ともなっている。余談だが、朱大渭氏は四川.西充の、梁満倉氏は河北涿州の生まれで、歳の差が劉備諸葛亮と同じく二十歳というのには、なにか因縁めいたものを感じる。朱梁両氏の劉葛主従への格別の思いには、由って来る所がありそうだと、ふと考えたものである。

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