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太公望(呂尚・りょしょう)
2009年01月28日(月)更新
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太公望(前一〇〇年頃)
太公望を辞書で引くと、「釣好きの人」という意味が書かれている。その出来となつた人物が、周の文王(西伯昌)の軍師となつた太公望こと、姜向、あるいは呂尚という人物である。出自については諸説あり、謎の人物だ。歴史に最初に登場するのは、釣人としてである。
あるとき、西伯昌が狩に出ると、渭水(黄河の支流)で釣をしている老人と出会った。見かけは貧乏そうだったが、話をしてみると、かなり見識のある人物だった。
西伯昌は狩に出る前の占いを思い出した。今回の狩の成果は何か、と占ったところ、「獲物は龍でも、虎でも熊でもなく、覇王を補佐する人物である」と出たのである。この貧乏そうな老人こそが、その人物に違いない。そこで、西伯昌は言った。
「我が亡き父、太公の時代から、やがて周に聖人が現れ、その人物の助けによって国が栄えるという言い伝えがある。あなたこそが、太公が望んでいた人に違いない」こうして、この老人、姜尚は太公望と呼ばれることになるのである。これとは別のエピソードもある。太公望は最初は殷の紂王に仕えていたが、あまりの暴虐ぶりにあきれ、殷での職を辞し、周に仕えるようになった。あるいは、西伯昌が紂によって投獄されたとき、それを釈放してもらうにはどうしたらいいか、周の家臣たちが相談に行った先が太公望だったともいう。
いずれにしろ、何がきっかけだったかはともかく、太公望こと姜尚は西伯昌の軍師になった。周は、その後、大国になつていく。太公望の戦略は、「天下の三分の二を支配下に置きつつも、殷に仕える」というものだった。これを実現すべく、太公望の指揮のもと、周は周辺各国を次々と侵略し、支配下に置いていった。西伯昌が天下取りの志半ばにして病死すると、太公望は昌の息子である発(後の武三)を補佐した。
そして、九年後、ついに周は殷に対して兵を挙げた。太公望は部下たちにこう号令した。「なんじらの兵と船、すべてをあげて出陣せよ「遅れる者は斬るぞ」 だが、このときは、諸侯の誰が周の味方をし、誰が殷につくかを見極めるための挙兵で、実際に攻撃するつもりはなかった。諸侯が集ったところで、まだ天命がくだっていないとして、兵を引き揚げた。そして二年後に、周はついに本格的に挙兵し、殷を滅ぼすのである。そのとき、占いでは「凶」と出ていたので、反対する者が多かったが、太公望は進軍を進め、結果として、大勝利を収めた。
戦闘は、周の勝利というよりも、殷の自滅であった。すでに殷の紂王は諸侯の支持を失っていた。兵士の数は、周陣営が四万五〇〇〇に対し、殷は七〇万。だが、戦意がまったく違った。
殷の兵士たちは武器をさかさまに持ち、周軍が攻めてくると、道を開けた。勝負はあっさりついたのである。二年前ならば、勝負は分からなかった。というのも、その二年の間に、紂王の暴虐ぶりはますます激しくなっていたからだ。太公望は紂王の評判がますます悪くなるのを待ち、そのタイミングを見計らつていたともいえる。
太公望の功績は、軍事面だけではなかった。戦後処理、そして周王朝を確固たるものにするための体制づくりにおいても、能力を発揮した。戦後処理で大事なのは論功行賞である。功績のあったものを公平に評価し、それに報いなければならない。ここで失敗すると、部下たちのあいだに不満がたまり、政権の基盤が弛む。さらに、戦争は庶民の生活も疲弊させているので、それを助けなければならない。大公望はそれらを見事にやってのけ、周王朝を磐石なものにした。
武王は太公望の功績に報いるため、いまの山東省にあたる、海沿いの斉の国を与えた。斉に赴いた太公望は、征服者として君臨するのではなく、その土地のもともとの習慣を尊重した。また君臣の礼を簡素化するなど、合理主義者としても知られている。統治者としての実務面では、海に近い土地だったので農業には適さないと判断すると、漁業や製塩業、さらに染織業に力を注いだ。太公望のおかげで斉は富んでいき、後の奉秋戦国時代には、大国のひとつとして覇を競うまでになる。
「覆水盆に返らず」という言葉がある。盆からこぼれ落ちた水は、土に染み込んでしまうので、もう戻すことはできない――つまり、 一度失敗したこと、 一度こわれた関係はもとにもどらない、という意味で使われるが、これは太公望の発言だという。
周の文王と出会ったときの太公望は貧乏な身なりの老人だったが、彼は本当に貧乏だった。あまりに貧しいので、妻は逃げてしまった。ところが、周で出世し声望が高まると、その逃げた妻が戻ってきて復縁を申し出た。そのとき、太公望は、「覆水盆に返らず」と言うのである。
太公望は年齢が不明である。文王と出会った時点、つまり歴史の表舞台に登場したときすでに老人だったわけだが、武王の次に即位した成王にまで仕えている。つまり、 一〇〇歳をこえる長寿だったらしい。
出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
呂尚(りょしょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。一般的には、太公望(たいこうぼう)という呼び名でも知られる。明代の娯楽小説『封神演義』においては姜子牙と称し、殷周革命を指揮する周の軍師かつ崑崙山の闡教の道士として主役格で登場する。 主に沖縄を中心とした地域に見られる、石敢當という魔除けの神様として封神されたとする伝承がある。
「封神演技」は、「三国志演技」「水滸伝」「西遊記」と並ぶ中国4大奇書に挙げられていますが、「封神演技」で語られる姜子牙の考え方は孔子の考え方と一致しなかったため、孔子により封神演技は歴史から姿を隠され、封神演技を除いて中国3大奇書となったそうです。
関連用語:周武王|幽王|殷周時代|斉威王|斉桓公|
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