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漢唐古墳壁画の流れ 2007.08.20更新
■ オンライン講座概要 講師:岡 崎 敬 九州大学 名誉教授 |
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紀元前221年,秦の始皇帝は戦国の6国を平定して,中国にはじめて統一国家を建設した。都を咸陽に定め,各国の青銅武器を没収し,貨幣の鋳造,度量衡,文字の統一,道路の拡充,郡県制の施行などの諸政策を断行したのである。秦は2世で終り,ひきつづく混乱を漢王劉邦がしだいに再び統一して,前202年前漢帝国を建設する。漢の武帝の時代になると,積極的に各地に兵を進め,ほぼ現在の新中国の版図の基礎をきずいたといってよい。前漢は,後1世紀の始めほろび,王莾(新)時代(9-23年)をへて,後漢(25−220年)時代にひきつがれる。漢代では,一部封国をのこしたものの,秦の郡県制を,継承おしひろめた。前漢では都は長安,後漢は都が洛陽であり,ここに皇帝と官僚層がすんだ。また郡県の中心地はそれぞれの地方の政治・経済の要地で,官僚家族がすんだ。現在の都市もこれから発展したものが多い。その郊外にはかれらの奥津城を今につたえているのである。 |
漢唐古墳壁画の流れ
漢代の墳墓とその壁画
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秦の始皇帝の陵墓は陳西省臨澄県にあり,驪山の下につくられたので驪山陵とよばれている。『史記』によると,始皇は天下の徒70余万人を発して陵をつくり,地下ふかくに槨を作った。秦末,漢初の混乱期に際し,項羽が陝西省に入り,30万人が30日かかっても盗掘したものを運ぶことができなかった。墓室には上に天文,下には地理を描き,人魚の膏を燭にしたと伝えている。陵墓は方墳で, 近年の調査によると東西345メートル,南北350メートル,高さ約43メートルをはかり,内城,外城の2重の城壁がある。
秦の都,咸陽に,各地域の人々が出かけるには,驪山の麓はどうしても通らなければならなかった。その壮大な墳丘は,当時の人々に強烈な威圧感を与えたであろうが,また戦乱に際し,いちはやく盗掘の対象となった。
前漢および後漢の帝陵は,秦・始皇陵をならって方墳である。前漢の帝陵は,文帝の灞陵,哀帝の杜陵などを除き,すべて渭水の北岸上のいわゆる渭原の上に東西に長くつらなっている。私どもは唐高祖の乾陵の見学の途中,元帝の渭陵,成帝の延陵などをはるかにのぞんだが,その後,たまたま武帝の茂陵の見学を許された。
茂陵は前漢帝陵では最大で方1辺,240メートル,その西北に李夫人の莢陵,その東方に武帝の将軍衛青,霍去病, さらにその東方に霍光の墓がならんでいる。霍去病の墓はかれが匈奴征伐の際,進軍した祁連山を象り,大石を墳丘に配し,石馬,石獣などがおかれていた。武帝の墓の内容はわからないが,文献によると霍光の墓は,木槨であったらしく,上に家を起し,祀堂があったという。
木槨に用いる柚などの樹木は,江南に多く,湖南省長沙の戦国代より漢代の墳墓は楠などの巨材を用いたものが多い。長安,洛陽など黄河流域でも,木槨の材木を江南に求めたことが後漢,王符の『潜夫論』などにみえる。しかし木材の移送は莫大な費用と要するため,その土地の石材や,粘上を焼いた塼(煉瓦)をもってあてた。塼の文様の上に木目状の文様のあるのは,木材に対する憧れと,その代用品であることを示しているということができる。
漢代墳墓にはこのように木槨,石槨,塼室墳があり,この中に木棺,遺骸を納めた。後漢代になると全国各地に塼室墳が多くなり,墓室にいれる彼岸への供献物である明器も,銅器などの実物を副葬することを止め,陶製品でかえ,人物,動物の俑も陶製化したのであった。山東,河南省などの石材の豊富なところでは墓室や祀堂を石でつくり,これに絵画をかいたものが画像石である。また河北省,四川省の一部で, 日本では横穴とよぶ崖墓がある。1968年,河北省満城県の2基の崖墓より,金縷玉衣をまとった2個の遺体が発見されたが,これは前漢武帝の兄,中山王劉勝とその妻竇綰のものであった。
漢代を通じ,こうした厚葬の風は,郡県の官僚,家族や諸国の王侯にひろがり,この姿を近年,中国の各地で発掘される漢基に如実に見ることができるのである。朝廷では,しばしば薄葬令を出したが,明器の陶製化など一部の合理化はあっても厚葬の風はやむところがなかったのである。
漢代では,宮殿や殿門に絵画がかかれていたことが記録にみえる。しかしこれまで,漢代の絵画は,画像石か,漆器などにみえる小絵画にその片鱗を伺うにすぎなかったのであるが,近年における中国の考古学的調査によって,漢墓中より帛画または壁画が現実に発見され,白日の中に私どもの前に展開されたのである。
漢代塼室墳における壁画は,現在のところ河南,河北,山東,山西,遼寧,甘粛の各省および内蒙古の自治区に,ひろく及んでいる。この中で河南省洛陽の壁画墓は,前漢末期と想定され,大形の空心塼と小形の塼で墓室をつくり,墓室の門額,隔墻の上の横梁の上に,壁画と, くりぬきの画像があり,墓室の頂部には太陽(金鳥),月(蟾蜍)と星宿がかかれる。後墻には上下2段,宴飲する人物と怪獣の図がみえる。
山西省平陸県棗園村の塼室壁画墓には墓室の上面に青竜,自虎,玄式など四神の図がみえ,また牛耕をはじめ耕作する農村生活の描写がある。後漢代前半のものである。
河北省望都県の塼室壁画墓(第1号墓)は墓門口には寺門卒,門事長,墓室の北壁には主簿史,門下功曹をはじめ,官職の名がみえる。人馬の列像など山東省における画像石,また遼寧省遼陽の石槨壁画墓に同一の表現をみることができる。この壁画墓の横に第2号墓が発見され,これにも壁画がある。ここより出土した買地券(塼)に光和5年(182年)の紀年銘があり,1,2号墓ともに後漢代後半のものということになる。
内蒙古,和林格爾県新店子公社の塼室墓では前中後の3室にわたり50数幅の壁画のパネルで飾られている。前室には,神話伝説,主人公生前の事跡,またかれに属する官僚の図がかかれ,中室の頂部には青竜,自虎,朱雀,玄武の四神がかかれている。
後室には「使持節護鳥桓校尉車馬出行図」,「寧城護鳥桓校尉幕府図」「楽舞百戯図」,「牧馬図」,「朱雀・鳳風,白象図」などが展開して圧巻である。この年代は2世紀の終り頃,後漢末にあたり,被葬者が北方民族の鳥桓を管理する漢族の官東であったことがわかる。中国本土より居庸関をこえて出行する図もあり,牧馬の図も,北方の生活をよくうつしている。首のたった駿馬が並んでおり,まさにこれをかいた人にとって毎日みる親しいものがあったにちがいない。内蒙古自治区の托克托県にも壁画塼室墓があり,これには「閔氏」の名がみえる。北方民族と接したこの地域の漢人の官僚家族の墓に,当時の漢墓に共通した画題とともに,自由なその土地に即した生活のあらわれているのは興味がある。
河南省密県打虎亭では壁画墓(M2)は,画像石墓(Ml)と30メートルの間隔にあった。壁画は塼の壁上に5ミリにわたる白灰の壁をつくり,上に,墨,朱砂,石黄,石緑などでかく。百戯図,包厨図,宴飲図,車馬,角抵図をみることができる。いずれも中々にぎやかである。百戯,包厨,宴飲,車馬図は漢代壁画墓共通の画題で,画像石にもみえる。角抵(すもう)の図は中々迫力があり,見事である。報告者はこの隣の画像石墓を『水経注』にみえる漢の宏農郡太守,張伯雅の墓にあてている。
甘粛省嘉峪関市新城公社にある塼室墓は8基の内6基に塼の壁画がある。塼壁に白灰で白壁をつくってかいたものとことなり,長さ36センチ,幅17センチの塼の横面に白灰で画面をつくり,上に墨や石黄,石緑,朱などでかいたもので, 1点1点が1つの作品となっている。1号墓には「段清」という名がみえ,漢代の甘粛省の家族段氏の一族と考えられる。この壁画には,宴飲,奏楽,出行など中原にみるものに,馬,牛を飼う図,養蚕,播種などの農村生活をうつしていて,きわめてたのしい。山東省の画像石が,勧戒主義とまでよばれるほど礼楽の世界をうつしているものが多いのに対し,嘉峪関の壁画は当時の辺境の人々の生活をナイーヴに表出しているといってよい。この墓の壁画はいまのところ後漢代よりむしろ魏晋代になると考えられているようである。
遼寧省遼陽市の近郊にも石室の壁画墓がある。これは頁岩質の板石を組みあわせ,数個の棺室を中にして,周囲に廻廊をめぐらし,その側に側室をしつらえたもので,その廻廊や側室などの壁面に壁画を描く。家屋の中に慢幕をたれ,その下に人物がすわっている。左右より供献されるこの人物が一般に墓の主人公を示すものと考えられ,これに宴飲,百戯,草馬出行などの図が展開されている。かって日本の学者が調べたことがあるが,解放後は中国の学者によって調査報告されており,壁画墓の年代は後漢代よりむしろ魏晋代のものが多いと考えられる。
これらの壁画は,被葬者の鎮魂を祈りながらも,この世の豊かな生活と祭りをあの世まで墓室に封じこむものであった。すでに太陽,月,四神,星宿を天井に配しており,門吏や怪獣をおくのは,外からの侵入者を防ぐものであった。祭りは,現代の雑伎にその伝統をつたえる百戯があり,音楽,舞踊の図があり,また車馬出行の図はその階級に応ずる儀礼をあらわしていた。この点, くりかえすことであるが,山東,河南の画像石墓は壁画基を石に固定したものだということになる。壁画墓の奥壁またはある壁面に被葬者とおもわれる人物が,かかれることがあり,これは山束の画像石墓や遼陽の壁画石室墓などにもみることができるのである。
1972年,長沙市馬王堆の第1号木槨墓より,木棺の上を覆った彩色の帛画が発見された。長さ2.05メートル,T字形で,隅にリボンがぬいあわされていた。上段の左右に,二足の鳥(太陽),がま(月)があり,北斗七星がみえる。また中段には,中央に杖をもつ婦人像があり,その左の跪坐する男子2人,右の婦人3人はこの帰人の侍者であろう。下段は供餐する状況を示し,中,下段は双竜を玉壁で交らしめて区別けしている。1974年,その隣にある第2号木槨墓が調査され,この両墓が前漢代の初期,長沙王の宰相であった軑侯利蒼夫妻のものであることが明らかになった。帛画にみえる婦人は被葬者である軑侯夫人ということになろう。この帛画については将来論じられることが多いと思うが, これは「墓絵」であり,これを墓室の上に表現すれば,漢墓の壁画になっていく方向性をもっているということができるのである。
漢代に,地下の壁画の世界は塼,塼の上の自壁,石刻(画像石)と,それぞれの地域性による特色はあっても静かにひろがっていったとおもわれる。日月星辰や四神をはじめとする図像は六朝,唐代にまでひきつがれ,西城より仏教芸術が入った際,これまでの伝統の祭祀の世界の中で理解しようとしたのであった。
また漢魏晋の古墳壁画は,遼陽の壁画などを介して高句麗古墳壁画の源流になったことは,いうまでもないところで,さらに日本の装飾古墳の中にもその余波を見ることができるとおもう。福岡県若宮町竹原古墳(朱雀,竜と牽馬),福岡県浮羽町珍敷塚古墳(太陽と月・がま)の壁画の前にたたずむ時,その大きな流れを感ぜざるを得ないのである
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唐代の墳墓とその壁画
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隋の文帝(楊堅)は,北周よりおこり北斉をあわせ, 589年には南朝の陳をほろばして,中国の南北を統一した。唐の高祖(李淵)は,隋の文帝とおなじく,北周貴族(関隴集団)の出身で,その次子,太宗(李世民)とともに618年,唐朝をおこした。隋の文帝は漢代長安の南郊に,首都・大興城を建設した。これは唐代に継承されて,長安とよばれた。長安は隋唐市国の首都として栄え,西城にむかう絹の道の起点でもあった。当時の東アジアの国々の留学生や商人もあつまり,長安の盛時には人口百万をこえたといわれている。
唐の太宗は,長安の北にある九嵕山の頂上に,生前より陵墓を営み,その前面に寝殿,さらに6頭の駿馬の石像,外国の酋長の石人像をおき,その山の麓に,諸王,公主(内親王),功巨の陪塚が営まれた。その後,唐の歴代の皇帝の陵墓は,山上に営まれることになった。高宗と則天武后を葬った乾陵は,この中でも最大の規模をもつ。乾陵は現在,陝西省乾県にあり,海抜1047.9メートルの陵山の頂上にある。 その前に,石柱,石の駐,鳥,石馬,石人があり,石碑や数十体の外国の酋長の石像はじめ,現在124点の石刻がならんでいる。有翼の石馬像は迫力にみち,駝烏は西城よりもたらされたものを写したものであろう。この石人石馬の制度はその後,宋,明の陵墓のみならず,新羅,高麗など周辺の国々にも長く採用された。乾陵にも,諸王,公主,功巨の陪塚があり,その17人の名前が記録につたえられている。この中で章懐太子(李賢),懿徳太子(李重潤),永泰公主(李仙宦jの3人の墓が,近年発掘調査されたのである。唐代の帝陵には乾陵の外に,則天武后の母,楊氏の順陵, 睿宗の橋陵,粛宗の建陵などが近年,陝西省文物管理委員会によって,その外形や石人,石獣などの配置について調査,報告されている。
西安,咸陽の郊外では,墓室の内容,出土遺物のわかる唐墓が近年多数発見されているが,その中から,墓誌銘が出上して,被葬者の官職や氏名がわかるものが少くない。この中に皇室につながるものや,宮廷をめぐる貴族上層部のものがあり,また壁画を有するものがほぼこの層に集中していることがみとめられるのである。
李寿(577−630年)墓は,唐高祖の父方の従弟のそれである。この他壁画のみられる墓の主人公として,執失奉節はトツケツ人の執失思力と唐の高祖の娘, 九江公主との間に生れた。韋泂は,中宗の妃,韋后の弟であり,薛氏は薛紹と,高宗と則天武后の娘太平公主との間に生れた。張去奢は,玄宗の娘,常芬公主の婿(尉馬とよぶ)である。また西安市東郊より高力士の父,馮潘州,その兄,高元珪などの墓があり,いずれも壁画が発見されている。
いまのところ西安近郊の唐の壁画墓では李寿墓(630年)が最も古く,執失奉節墓(658年),李爽墓(668年)とつづき,その後中宗代より玄宗代の3世紀前半には急激に多くなるが, 8世紀後半には急激に少くなっているようにみえる。この中で,先にのべた乾陵の三陪塚および,韋泂墓は被葬者および墓の営造の条件,また発見内容からいっても,一つの頂点をなしているといってよい。
永泰公主は高宗と則天武后の孫女,中宗の七女にあたる。名を仙恵といった。武后の甥である,武承嗣の子,武延基に嫁した。兄の懿徳太子・李重潤が武延基とともに,武后が張易之,昌宗の兄弟を寵愛するのを攻撃したので,則天は激怒して,当時皇太子であった中宗に究問せしめたのである。中宗にとってはなんといっても長男とかわいいプリンセスである。方策つきた中宗は大足元年(701年)9月この三人を自殺せしめたのである。武后の権幕の前には中宗も全く歯がたたなかった。
この永泰公主墓は1960年8月より1962年4月に至る間,発掘調査された。墓室は墳丘の地下深くにあり,前・後の二室,その前に高道があり,さらに墓道が地上にむかって上ってくる。その左右にそれぞれ4個計8個の小室がある。この構造は章懐太子,懿徳太子と基本的に同じである。墓室はすでに盗掘をうけていたが,龕の中には多量の三彩の人・馬の像や二彩の器皿が発見された。前室に至る甬道の南に「大唐永泰故公主誌銘」のある石製の墓誌があり,後室の西側に木棺をいれる石部が発見された。基室の増の上に麦草をまぜた泥上をぬり,さらに綿花の繊維を加えた白土をぬり,その上に壁画を描く。基道の東壁には,武人,青竜,闕楼,儀仗隊があり,これに対し西壁は剥落がはげしいが,白虎,闕楼,武人などがみとめられる。前室には,東西南北各二幅,計八幅の壁画があり,前室の東壁北側には侍女6人,男の侍者1人がみえ,その南側には9人の男女の侍者が団扇,如意,払子などをもっている。後室も,南,東,北の三壁に男女の侍者像がみえる。前室の天井には太陽(金鳥)と月(月兎)をあらわし星宿図がみとめられ,後室もほぼ同様な図があったものと想定されている。
章懐太子(李賢,654〜684年)は高宗と則天武后の間に生れた第2子である。学問を好み,博覧強記で,「後漢書」の注釈をあらわし,これは,現在も章懐太子注として残っているほどである。高宗は李賢を皇太子としたが,武后にうとまれ暗殺を企てたとして,庶人におとされ,振州に流された。かれを愛していた父の高宗も手の下しようもなかった。ついで巴州に流遇し,武后即位の後,巴州で死を賜わり,ここで30数歳の生涯をおえた。中宗は即位するとその兄の死を悲しみ,巴州よりその棺をうつして神竜2年(706年)乾陵に陪葬した。さらに景雲2年(711年),その妃を合葬した際,章懐太子の号がおくられたのである。
墓室は永泰公主と同じ形式,前,後2室とその墓道に左右3個,計6個の小室がある。墓道より後室までに壁画があり,現在総計50余幅の壁画がのこっている。墓道の東壁(むかって右壁)には出行図,使節図,儀伏図,青竜図,西壁には馬球図,使節図,儀仗図,白虎図があり,それぞれ対置されている。使節図には各壁それぞれ3人の外国使節がみえる。この中に日本の使節ともおもえる人物があり,これが本当だとすれば,大宝年間の遣唐使であった粟田真人などをうつした可能性も生れるわけである。北京の歴史博物館での展観の際,案内された王治秋先生はこれは小川大使の先輩かも知れませんといわれて,ほほえまれた。墓の詩道以北の壁画は,報告者は景雲2年(711年)の合葬の時と考えている。東壁には男子1人,侍女4人,西壁には侍女4人があり,唐の宮廷
生活をうつしている。前室には8幅の壁画があり,観鳥捕蝉図(西壁南側),侍女図(北壁南側,東壁南側)が紹介されている。前室と後室の各雀状の天井に, 日月,星辰が描かれている。太陽には金鳥,月には兎が薬をつく図と桂の樹があらわされている。
諮徳太子(李重潤,682−701年)は,中宗の長子で,永泰公主の同母兄にあたる。先にものべたように永泰公主とその主人武延基とともに,則天武后の逆鱗をかい,武后は父の中宗(当時,皇太子)に究問させ,3人ともに自決したのである。この時,諮徳太子は19歳,永泰公主は17歳,大足元年(701年)秋9月のことであった。
諮徳太子墓は,前二者にくらべて墓道も長く壁画も複雑多岐である。墓通には,東壁に儀仗隊図,青竜,城壁と関楼,山岳と儀仗隊図,西側にも儀仗隊図,白虎と闕楼,山嶽と儀仗隊図を対置する。過洞には左市,男女の侍者を対置するが, 豹を馴す人や鷹をもつ人物があり, 団扇, ろうそく, 器皿をもつ婦人像もみえる。後室の西壁には石槨があり, ここには壁画がない。東壁には侍女9人,北壁には侍女4人,南壁には侍女1人の図がある。その天井には日,月,星辰を描き,太陽に金鳥,月には蟾蜍をあらわしている。墓道の壁画は儀仗図の他,画題も豊富で今後,多くの問題をのこしている。
神竜2年(706年),中宗は薄幸であったその兄章懐太子,その子,懿徳太子,および永泰公主のために墓を営んだ。706年というのはまさに墓つくりの年で,唐の官廷の多くの土木技術者が投入されたことは想像できる。また同時に当時の人々が,この土木に苦しんだことも記録にみえている。壁画として,墓道には青竜,白虎などの四神をおき,前,後室の天丼には日,月,星辰を配するのは原則であり,墓道には儀仗,墓室には男女の侍者を配するのが通例である。
中宗の妃, 韋后の弟の韋泂墓(708年)は陝西省長安県南里王村にあり,1959年に調査された。前,後の2室と墓道の左右にそれぞれ2室,計4室の小室がある。後室の左壁には石槨をおき,墓室はすでに盗掘されていたが,小室から人,馬, らくだ,牛車などの陶俑が発見された。墓道の東壁北段に青竜,南段に朱雀,西壁北段に白虎,南端に朱雀が描かれていた。後室の西,北壁には男女の侍者が描かれる。男女ともに豊満であるが,筆致は上にのべた乾陵の三障塚のものとは明らかにことなっている。
7世紀の後半より8世紀にかけて,長安,洛陽の同都で多くの寺院が建立され,仏画の壁画が描かれた。画家としても呉道玄などが有名である。このころは画像と彫刻の塑像の表現はきわめて近く,写実性にとむ。甘粛省敦煌莫高窟のその頃の壁画にみとめることができる。また宮宮廷生活の発達にともない,美人,風俗画をかく宮廷画家もあらわれ,玄宗代の張萱らの名前が伝わっている。章懐太子,永泰公主墓などの壁画の製作にあたっては,宮廷画家が動員されたことが当然考えられるところである。懿徳太子墓前室の天井に陽蛩陸」という名前がみえる。筆写した画家の1人とも考えられるが,いまのところ,たまたま落書にのこったこの画家以外の人々の名前のつたわらぬのは残念である。
唐代の古墳壁画は,現在のところ,陝西省の西安,咸陽,乾県などに約15例,山西省太原に5例,広東省韶関市に1例,新彊ウイグル自治区トゥルファン(アスタァナ古墓)に1例知られている。韶関市の例は玄宗の宰相であった張九齢の墓であり,唐都長安の壁画の墓制をとりいれたものであろう。山西省太原は唐李氏の根拠地であり, トゥルファンは高昌国の後であり,唐都長安の古墳壁画を直ちに反映したということができる。
1972年の3月,奈良県明日香村,高松塚古墳を橿原考古学研究所が調査発掘中,横口式の小石槨があらわれ,その四壁には四神をはじめ男女の侍者群像をふくむ華麗な壁画が発見され,私どもの耳目をそばだてたのである。この頃,壁画の性格,系統や,被葬者について多くの論議がかわされたことは記憶に新しい。
これまで7世紀後半より8世紀前半にかけての唐墓の壁画をみてきたが,いずれも,基本的に日,月,星宿を天井にかざり四神をそなえ,男女の群像を有するものであった。また長安では,唐の皇室はじめその周辺の貴族層の基に描かれたものであった。おそらくこの知識と技法が日本に伝えられたとすることは否定できないようにおもわれる。この頃,日本の皇室はじめ家族は埋葬に際し墳丘,石室をもつ墳墓を廃して,火葬が急激に普及したので,高松塚古墳のごとき壁画の発見も,今後多くはのぞめないだろうと思う。
わが日本はこの頃,藤原京より平城京にうつるころである。われわれは,千数百年の歳月をへて陽光を浴びたこの小さな壁画基の中に,海をこえて求めた唐代文化の流れをひしひしと感ぜざるを得ないのである。またこの中に「大和絵」の世界がしずかに用意されていたと説かれるのはゆえなしとしないと思うのである。
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参考書籍
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