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諸葛孔明(諸葛亮)2008.01.28更新

諸葛孔明
【和:しょかつこんめい
【中: Zu ge kong ming
秦・漢・三国|歴史人物>諸葛孔明

 三国時代の丞相。諸葛亮、字は孔明。千年に一人と言われる蜀の名軍師。政治面でも軍事面でも非凡な才能を発揮。神の如き知略で劉備を支え遂に蜀建国を成し遂げた。
 若くして天下に”臥龍”と称されて臥竜岡の草盧で晴耕雨読の生活を送っていた。その折、戦略的な参謀をさがしていた劉備の「三顧の礼」(三度の訪問)によってその人柄に惚れ込み仕える事となる。この時孔明は27歳という若さであった。以後、数えきれない程の活躍によって持論である「天下三分の計」を実現させる。
呉に敗退し劉備亡き後の蜀を建て直し南蛮攻略を成功させて漢室復興を掲げ、有名な「出師の表」を作り魏討伐を開始する。結果として北伐は成功しなかった。日頃の激務がたたり第5次北伐の際、五丈原の陣中で没する。享年54歳。
天才参謀がたどった軌跡  諸葛亮、字は孔明。したがって、諸葛亮孔明、あるいは諸葛亮とするのが正しい。幼いころに父を失い、叔父のもとで育った。並外れた知性と知識の持ち主である。戦乱の世に誰にも仕えることなく、晴耕雨読の日々を送っていたところに、劉備がやってきて、「三顧の礼」を尽くされたので、参謀となる。 最初の大仕事が、全権委任大使として呉の孫権のもとに行き、同盟を組もうと説得することだつた。二〇八年、曹操が大軍を率いて南下し、劉備軍は壊滅的打撃を受けた。孫権と同盟を結ぶしか、劉備の生き残る道はなかった。だが、孫権としては、曹操に降伏するという道がまだ残されていた。孫権が劉備と結び曹操と戦う気があるのかどうかは、まったく分からない。さらに、本来ならば、劉備は孫権と対等の立場にはなかつたが、なんとか優位な形での同盟関係にしなければならない。 諸葛孔明は孫権と対面するなり、「曹操は強い。降伏したほうがいい」とさぐりをいれた。孫権は驚き、「なぜ、劉備は降伏しないのか」と訊き返した。孔明は、「劉備殿は漢王朝の血を引いているので、曹操になど降伏できない」と答えた。孫権への挑発である。孫権はそれに乗ってしまい、「私も降伏するつもりはない」と言う。「ならば、同盟を結ぶしかない」と孔明は言って、具体的に、曹操軍の兵力を分析し、劉備と孫権が手を結べば勝てることを説明した。孫権は参謀の周瑜の意見も聞いた上で、劉備と同盟を結び、曹操と戦うことを決断。こうして、劉備と孫権による反曹操同盟が確立され、曹操の誇る水軍を赤壁の戦いで壊減させるのに成功した。その後も、さまざまな戦略・戦術を立て、天才軍師として劉備に仕え、蜀帝国の建国まで導いた。もつとも「三国志」で伝えられる活躍ぶりには、フイクションもかなりまざつている。 蜀帝国の丞相になっだ諸葛孔明は、法律・制度を整備し、官職も整え、賞罰のけじめも明確にし、公平な政治をおこなった。国民から厳しい人だが正しい人だと慕われた。軍師としてよりも、内政の得意な政治家・行政マンとしてのほうが有能だったという説もある。
諸葛孔明名言「学問は静から 才能は学から生まれる 学ぶことで才能は開花する 志がなければ学問の完成はない」
諸葛孔明の子孫
諸葛八卦村は浙江省蘭渓市の中心部から、西に17km離れた所に所在しています。現在、諸葛八卦村には約4,000人の住民がいますが、その80%が諸葛姓だと言われています。諸葛亮孔明の子孫が住む村としては、中国最大の村です。
 村全体が九宮八卦の陣のように配置されていることや、200を超える明・清時代の建物が完璧な形で残されていることなどから、1996年11月に国務院の全国重点文物保護単位に指定されるとともに、国の「AAAA級観光地」にも指定されています。 まず、諸葛村の歴史をひも解いてみましょう。
 諸葛亮孔明が五丈原で魏の司馬懿と長期に渡って対陣し、54歳で陣中に没したのが西暦234年。その後、西暦280年に、司馬懿の孫の司馬炎が中国を統一(西晋)しましたが、諸葛亮の孫である諸葛京はその西晋に仕え、江州刺史にまでなっています。  諸葛亮の子孫は蜀の滅亡までに、子の諸葛瞻や孫の諸葛尚が戦死していますが、当時、年少であった諸葛京(諸葛瞻の子)は移住させられたものの、命までは奪われなかったとされています。その後、諸葛京の子孫は、晋、隋、唐の各朝に仕えています。  諸葛亮から数えて14代目の宗主、諸葛浰は中原での戦乱を避けるため、山陽(今の紹興)で官職を探し、寿昌県令に任じられました(西暦952年)。以後、彼の子孫は今の浙江省に住み続けています。諸葛八卦村の諸葛氏は「浙江諸葛氏」と言われますが、浙江諸葛氏は、この諸葛浰を始祖としています。
この諸葛一族の系譜は、大公堂に貼られた系譜で知ることができますが、諸葛亮の父である諸葛珪から、現在既に誕生している第55世(諸葛亮から数えると、第54世)まで記載されています。  話が横道にそれてしまいました。さて、ご紹介する諸葛八卦村の地に、諸葛一族が住み始めたのは、西暦1340年前後と言われています。(恐らく、それまでは、浙江諸葛氏は浙江省の寿昌か、その近辺に住んでいたものと思われます。)27代宗主の諸葛大獅の時代です。1340年というと、元朝の中・後期にあたります。諸葛大獅は建築の専門知識に明るく、子孫を発展させるために、今の諸葛八卦村の土地を買い取り、村の構造(都市計画)を綿密に定めたうえで、諸葛一族の村づくりを開始しました。  ここに諸葛一族の村、諸葛八卦村が誕生したわけです。
関連用語:曹操|孫権|袁紹|董卓|赤壁古戦場 劉備・孫権同盟

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