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黄河文明(第三部) 2008.11.09更新
■ オンライン講座概要 講師:雷従雲 |
出所:黄河文明展 |
前書き: |
歴史が悠久で国上の広大な中国は,燦爛と輝く古代文化を持っている.中国の北半分に位置する黄河流域は,中国文明の揺藍の地である.太古から今日まで,黄河は奔流してやまず, この流れに育まれた偉大な文明は光り輝いている.参考資料
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5.広大な秦漢文化
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前221年,渭河から黄河中流域を版図とする秦国は相前後して韓・趙・魏・楚・燕・斉の6諸侯国を攻め滅ぼした,「六王畢わり, 四海一となる」(杜牧「阿房宮賦」)。諸侯が割拠する分裂状態は終焉を告げ,統一された封建国家が成立した。咸陽を首都とし,その境域は東は大海に臨み,西は甘青高原に達し,南は嶺南に至り,北は河套・陰山・遼東に及んだ。
秦の始皇帝の中国統一は,中華民族発展史上の重大事件であった。始皇帝は統一後,権力集中と統一強化のための一連の重要な政策をとった。長期にわたる分裂割拠がもたらした文字の形,貨幣制度,度量衡の不統一を解消するために,秦の丞相李斯が定めた小篆を標準文字とし,方形の孔のあいた円形の半両銅銭を通貨とし,商鞅が制定した度量衡を標準度量衡にすることを決定し, 詔して全国に推進させた.さらに分封制(天子が貴族・臣下に土地を分かち与えて諸侯にする制度.封地内の政治・経済・軍事などは独立し, 支配権は世襲.封建制ともいう)を廃止して郡県制(全国を若干の郡に分け,郡の下に県を設け,郡と県の長官は皇帝が直接任免し, 世襲できない)を敷き, 最高統治者の称号を「皇帝」と定め,法律を統一し,行幸のための道を作り,霊渠(広西興安県内にある運河)を開鑿し,北に匈奴を撃ち,長城を修築した。これらの施策は統一国家の発展を促進する上に極めて大きな影響を及ばした。
秦王朝はわずか十数年しか存続しなかったが(前221-前207年),後世に豊かな歴史的文化遺産を残した.
秦都咸陽遺跡において,考古学者は横約6キロ,縦4キ口の範囲内で,基壇を版築で築いた大型建築物を数多く発見した。ある官殿遺跡の発掘から,主体の建造物は版築で築いた高く大きな基壇の上に立ち,柱の並び・通路・石段・門の通路は対称的に配置され,四月に回廊があったことが判明した.殿内は床を朱漆で塗り,壁面に彩色した壁画があり,石段は龍鳳文・菱形文・回文のある空心導で築かれ,瓦当の装飾文様は秦国伝統の鹿・馬・虫・鳥などの動物文のほかに,東方の周王朝支配地域の巻雲文を取り入れている.これらは秦代宮殿建築芸術の理解に非常に価値のある資料である.
長城と兵馬俑は秦代が後世に残した至宝であり,世界の奇観と称えられている。
長城は前7世紀に初めて建てられた。もともと各諸侯国が隣国の攻撃と北方遊牧民族の侵入を防ぐために築いたものである.秦の始皇帝は全国統一後,大将蒙恬を遣わし秦軍30万を率いて匈奴を迎え撃たせ,ついで50万の軍民を派遣して大規模な長城修築工事をさせた。燕,趙,秦3国の長城をもとにして,連結,補修を加え,西は甘粛省臨洮から東は遼東まで,高くそびえる嶺々や谷川峡谷を縫って連綿と続く, 1万華里(約5,000km)に及が「万里の長城」を築きあげた。長城には百もの関所と要害,万にものばる城塞とのろし台がある。長城は戦略防御の産物である.歴史の上で,それは確かに敵を防ぎ平和を守る役割を果たした。2千年来, この延々と続く巨龍は永遠に飛び舞っているかのようであり,中華民族の偉大な活力のシンボルとなった。ある人の計算によれば,万里の長城を築くには, 1億8千万立方メートルの突き回めた上と6千万立方メートルの石材が必要だという.もしこれらの上石を地球の赤道に沿って,幅1メートル,高さ1メートルの台にして敷くとすれば, 5周するという.古今を通じて,何と偉大なエ事であろうか!
秦の始皇帝の陵墓は陝西省臨潼県にある.2千年の風雨にさらされて剥落し,人為的破壊に遭ってきたが,表面の封土はもとのまま巍然と関中平原にそびえ立ち,雄大な姿を見せている.陵墓内の地下宮殿の宝物はどうなっているのか,今だに謎である。1974年以来,考古学者は秦始皇陵の東域で,幾つかの兵馬俑坑を発見した。坑内には6千点以上の兵馬俑が埋められ,ほかに木製の戦車,各種の青銅武器があった。陵墓の西側で青鋼製車馬を埋葬した坑が一基発見され,青銅車馬2組が出上した。秦俑坑の重大発見は内外の注目するところとなった。一つには,灰陶彩絵の完全武装の兵士と軍馬は実物大に近く,馬に鞭打ち戦車を御する者あり,弓を引き弩を持ち上げる者ありで,一定の隊列に従い主体は東に向き,勇ましく壮観な戦陣を構えている.この兵馬俑群を見ると,当時始皇帝の六国統一の戦争において,「帯甲(よろいを着けた歩兵)は百余万, 車は千乗,騎は万匹」(『戦国策』韓策一)という,戦場を疾駆し,連戦連勝のみなぎる気概をしのび,始皇帝時代の武功を理解することができる.もう一つには,兵馬桶は精級で膨大な彫塑群であり,工匠たちが用いた彫塑の技法,模・塑・捏・堆・貼・刻・画(つまり型取り・こね上げ・つまみ上げ・積み上げ・貼りつけ・ヘラ彫り・絵つけ)などを一身に集め,中国伝統の泥塑「七技」の技法を創造し, これによって秦軍の将士と軍馬の気質,精神,態度を浮き彫りにし,驚くべき芸術効果を生んでいる。それらは写実的でありながら,簡潔で洗練された芸術の花である。近年,一部の秦兵馬俑が日本やその他の国で陳列されたが,観衆に珍重されない所はなかった。1号兵馬俑坑の上には既に巨大な兵馬桶博物館が建てられ,一般の参観に供されている。これは独特の陶塑芸術品である。このように広大な地下彫塑芸術館がほかに世界のどこにあろうか。これこそ2,200年前の黄河河畔の偉大な歴史の結晶である!
秦が滅びてから,「楚漢相争う」の5年を経て,漢王劉邦は楚の覇王項羽に勝ち,前220年,帝を称えて漢朝を建て,都を長安(今の陝西省西安)に定めた.歴史にいう西漢(前漢)である.前漢末,深刻な社会危機が王莽の改制と農民の大蜂起を招いた.その後,劉秀が漢朝の支配を改めて建て直し,紀元25年に皇帝(光武帝)を称えて,洛陽に都を建てた.歴史にいう東漢(後漢)である。前後漢は合わせて400余年.政治的に統一され,経済文化が発達し,武力の強大な,5,6千万の人口を擁した偉大な国家であった。
前漢前期は「無為」の政治を行ない, 人民は6,70年間休養して鋭気を養うことができた。そして半割拠状態の諸侯国を最終的に除去し,中央集権の力を強めた。前140年,武帝劉徹が位を継いだ。彼は卓越した才能と遠大な策略を持った政治家であり,政を行なった半世紀の間に,前漢王朝は最盛に達した。政治面では,統一された中国が一層強国なものとなり,高度の中央集権制を実現した.経済面では,水害を治め,水利事業を興し,進んだ耕作技術を普及させ,豪族の手中から製塩・冶鉄・鋳銭の権益を取り戻した。軍事面では,北辺の強敵匈奴を敗り,西域に通じる路を開拓し,版図を拡張した。文化面では,儒家思想が正統思想となり,共通の文化を基礎とする共通の心理状態の安定化に役立った。前漢の様々な方面における代表的人物は,大経学家・政論家の董仲舒,大将軍の衛青・霍去病,大農学者の趙過,
大歴史家の司馬遷, 大天文学者の唐都・落下閎,大探検家の張騫,大音楽家の李延年など,いずれも集中的に武帝時代に現われた.この非常に重要な一時期は黄河文明史上の輝かしい一章である。
考古学の成果は,前漢の社会と文化の発展を理解するうえに大変貴重な資料を提供した。元来地方ごとに特色のあった文化が前漢中期以後さらに接近し, しかも新たに設けられた郡県による新たな漢文化の地方性が出現し始めたことを, 大量の考古学遺跡・遺物は証明している。当時,都城長安周辺の関中地方は経済文化の最も発達した地方であった。関東地方(函谷関以東の地)即ち黄河中・下流域も経済文化が非常に発達しており,文化は関中地方とよく似ていた.黄河上流はなお人煙稀な,経済文化の比較的遅れた地域であったが, 河西の4郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)の設置に加えて,軍事・屯田などの行動にともない,多くの新しい地域が開墾され始めた.甘粛省,青海省で軍事と屯田の遺跡が幾つか発見されている。
都城長安の壮大な規模は前漢の政治・経済・文化発展の集中的な現われである.考古学一般調査と発掘の結果,次のことがわかった。長安は平面がほぼ方形をなし,各辺に城門が3つあり, 四方の城壁の全長は25,700メートルになる.城壁の断面は台形をし,底部の幅は12~16メートル,外側に幅約8メートル, 深さ約3メートルの濠がめぐる.城内に街路・宮殿・武器庫の遺跡, 城外南郊と東郊に辟雍(天子の建てた大学)など礼典にかかわる建物の遺跡がそれぞれ発見された.これらの発見は,長安城についての記載,つまり周囲63里(漢代の里は約400メートル),12の城門,城内に8街9陌(陌も街路), 東西9寺(寺は役所の意),160閭里(道に囲まれた庶民の居住単位)というのと一致する.長安城発掘の作業はなおも末永く続けられるであろう。そこから次々に明らかになることは前漢の社会に対する認識を深めるであろう。
黄河流域で発見された前漢時代の農業と手工業に関する遺物は,前漢時代黄河流域の経済が大きく発展したことを反映している.
前漢時代の農業に関する考古資料は極めて豊富である.河南省洛陽焼溝前漢墓の陶倉と陶壷の中に,栗・黍・稲・大豆・麻・ハトムギ・高梁の残滓が発見された.これらが黄河流域及びその北方一帯の主要農作物であることを示している。陝西・河南などの多くの場所で発見された鉄の犂先は大変多い.山西省平陸県棗園村壁画墓では, 2頭による牛耕図と播種図の壁画が発見された。甘粛省武威磨咀子出土の牛と型の木製明器は牛1頭が一つの犁を引く。これらは前漢時代,黄河流域・長城地帯において,牛耕が広まり,楼(牛などに引かせる種播き器)による播種が普及していたことを示しており, これは当然農業労働の効率を大幅に高めることができた。
前漢時代の製鉄・青銅器製造・漆器製作・製陶・紡績などの手工業生産はどれも大きな規模を持っていた.とりわけ国家が統制する製鉄・製塩・醸造・贅沢品製造といった官営手工業は大いに発展し,技術水準は高かった.帝王や貴族の使用する青銅器はつくりが非常に凝っているばかりでなく,鎏金銀・金銀などの象嵌細工を施すのが常であった。例えば,陝西省省興平県漢武帝茂陵の陵域内出上の鎏金青銅馬,鎏金銀青銅竹節熏炉,山東省淄博市大武漢墓出上の鎏金青銅薫炉は全体がきらきらと輝き,すこぶる価値の高い工芸作品といえる.ほかの青銅鏡のような服飾用具・生活器具は一層実用化し,品質が向上した.
武帝以後,大土地所有制の基盤の上に建った荘園経済は急速に発展し,多くの荘園主は手工業も兼営した.豪族地主勢力の伸張は封建割拠の要素を孕んでいた.
全国の多くの遺跡,
とりわけ黄河流域の河南,陝西,山東などの前漢晩期から後漢までの墓葬中に,地主荘園経済とその支配下の農民や奴婢たちを誇示するような陶製明器のセットが相当広く発見されている。邸宅・楼閣・倉・井戸・竃・一組になった陶俑などである。主人の居室にならって配置設計されている墳墓もある。例えば洛陽などでは,普通,耳室・甬道。前堂・後室の部分を設け,各部分の副葬品は配置が定まっている.左の耳室に篭・釜など炊事道具や料理人俑,右の耳室に車馬装飾品と陶倉を置き,前堂は鼎・盒・杯・案(小机)など食事用具,後室には鏡・鋏・剣など身の回りの道具がある.門を入って左側は台所,右側は車馬房と穀物倉,前堂は酒宴の場所,後室は起居する所であることがわかる.注意に値することは,建物模型の或るものには四隅に角楼があり,その楼上や楼下に武器を手にする護衛兵がいることである。これは一部の邸宅建築がますます砦の性格を持つようになったことを表わしている。これと関連したものに,河南・陝西・山東などの墓葬出土の画像石・画像塼がある。それには楼閣人物・車馬行列・楽舞百戯・門吏及び東王公・西王母・四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)・瑞鳥瑞獣といった題材の図が多く,牛耕・稲穂・狩猟・放牧の図もある。これらの明器と画像は,墓室構造自体をも含めて,漢代の社会状況の一面をある程度示しており,また趣のある漢代芸術品を我々に提供している。
前漢・後漢の文化は格別に豊富である.孔子の創始した儒学はこの時期の加工・改造・論争を経て,封建統治階級の要求により適った指導思想――経学と成った.董仲舒,王充などの経学家の多くは著名な思想家であった.
太史公司馬遷の著した『史記』は,黄帝から始めて漢の武帝にまで及が,中国古代最初のスケールの大きく,編成の整った紀伝体(天子の伝記の本紀と,臣下の伝記の列伝とを主体とした歴史記述の一体)の通史となった.
後漢の歴史家班固は群書を広く採り,『漢書』を完成して,断代史の新体を創った.『史記』と『漢書』は封建主義正史体の歴史書のうち最も完成度の高い巨著であり,『春秋』・『左伝』を代表とする周秦史書の基礎の上に,歴史学を大幅に前進させたのである。
漢代科学の卓越した成果の中には,天文・暦法・数学・地震学・製紙・医学がある。漢武帝時に作られた新しい暦―一「太初暦」は, 1年を365.2502日とした当時最も進歩した暦法であり, また135カ月の日食周期を算出し, 日食現象を予測可能の科学知識に変えた.『漢書』の中に新星と太陽の黒点についての正確な記録があるが, これはそれらについての世界公認の最も古い記録である.天体観測の記録としての天象図・星図が多くの地で見つかっている.前漢初に成った書『周髀算経』は最も古くピタゴラスの定理を使って天文計算と比較的複雑な分数計算をしたものであり,後漢中期に成った『九章算術』は内容が算数,代数,幾何など多方面の計算問題にわたり,そのうち平方根・立方根・一元二次方程式・連立一次方程式の解き方などは当時の世界の数学の分野でまれに見る成果である。後漢の張衡は偉大な天文学者であり地震学者であった。彼の論証によると,天と地は丸く,天は外にあって鶏卵の殻の如く,地は内にあって黄身の如く, 日月星辰は殻の上を休みなく運行するという。これは最も進んだ天動説であった.さらに彼は世界初の地動儀を造った.即ち地震波を利用して地震の方向を測定する計器である.感度がよかったため,138年のある日,洛陽から千華里(約500km)も離れた隴西(甘粛省臨洮県南)に発生した地震の消息を正確に報告したことがあった。漢代, また多くの著名な医学者と医薬学名著が現われた。中国古代の医学はもともと方士(道士)の巫術の中に付属していたものであるが,前漢と後漢の境に至ると徐々に独立してきた。前漢末に成った『神農本草経』は365種の薬物の品種と性能をこと細かに記述している。後漢の著名な医学者張仲景には専門の内科医学の著作『傷寒雑病論』16巻がある.また著名な民間医,華陀は極めて巧みな外科と麻酔の医術を持っていたという.理論と方法を持つ独自の中国医学の体系は漢代すでに打ち建てられたのである。
漢代に発明された製紙法は中国古代4大発明の一つである。1957年,陳西省西安市灞橋の前漢前期墓葬中から発見された,麻類の繊維で作った紙の残片は,今のところ世界で一番古い人造紙片である。その後,黄河流域の扶風,及び甘粛から新疆に至る地方の居延・敦煌・武威・民豊などの地で陸続と漢代の麻紙が発見された。植物繊維製紙法の大規模な普及はおよそ後漢の和帝時に始まった.当時の宦官,蔡倫が先人の経験を集約して,樹皮・麻くず・ぼろ・破れた魚網で紙を造ったが,価格が低廉だったので以後全国で広く造られ,人々はこの紙を「蔡侯紙」と呼んだという。その後,中国の製紙法はしだいに朝鮮・日本・中央アジア各国に伝わり, またアラビアを経由してヨーロッパに入り,周知のように世界文化の発展に重大な役割を果たしたのである.
民歌や五言詩などの文学,絵画・彫塑・楽舞などの芸術は,漢代は以前と比べてはるかに豊かな内容と高い芸術水準を持っていた。当時の絵画は,壁画・鳥画・漆画をはじめ陶器につけられた絵など,いずれもその線は流暢で,色彩は調和がとれ,熟達した絵画技法を示している。石彫・画像石・画像塼・陶塑・青銅彫像品など各種の彫塑は,それぞれ異なる素材に,線彫り・浮彫り・丸彫り・塑造などいろいろな技法を用いて豊かな内容を表現している.陳西省興平県霍去病墓の大型の人物石像と動物石像,河南省洛陽洛河岸発見の後漢時代の石造の天禄と辟邪(ともに霊獣),甘粛省武威県雷台出上の後漢時代青銅奔馬,武威県磨岨子出上の木彫の馬など, どれもが漢代工匠たちの豊かな想像力と秀れた創造的才能をはっきりと示している.
政治上の統一,経済文化の発達及び強大な国力などの基礎の上に,漢はまた周囲の幾多の国や民族と密接な政治・通商関係を結んだ.漢代数世紀間のほとんどの歳月,漢族と多くの少数民族は経済文化の平和的な交流のうちに過ごしてきた。長安と洛陽は対外交流の中心であった。西方に対しては,漢武帝時代に張鶱が前後2回10余年間にわたり西域に使いして,中国内地と辺彊地区とのつながりを強めたばかりでなく,葱嶺(パミール高原一帯)を越えてパミール高原以西の国家や地域と関係を結び, アジアからヨーロッパ・アフリカ大陸へ通じる大きな道を拓いた。中国の絹・鉄器・鋳鉄技術などが西方に伝わる一方,西方の産物(優良種の馬・葡萄・石溜・人参など)及び音楽,舞踊なども中国に入ってきた。この中国と西方の交通の要路が, 後代の人の言う「シルク・ロード」である。これは文明と友誼の道であり,前漢から唐代までの1千年の間,中国と西方の文化を結が重要な役割を終始果たしてきたのである.この「シルク・ロード」沿いに保存されている極めて豊富な古代文化の遺跡と遺物が,今日考古学者と旅行者のめざすところとなっている.
東方に対しても,文明と友誼の道があった。それは朝鮮と日本へ通じる道である.秦始皇帝時代に徐福が不老不死の薬を求めて東へ海を渡り日本に着いたという話はなお幾らか伝説的だとしても,漢代に既に中国と日本の間に正式の往来があったことは,間違いなく文献で考証することができる.『漢書』中に既に「倭人」の記載がある.『後漢書』の記載になると幾らか詳しくなり,恐らく倭人は後漢以降常に中国に来るようになったためであろう,紀元57年,光武帝は倭国王に印綬を授けた。『三国志』魏志の記事はさらに詳しく,漢と倭の往き来は増え続けていたことを明らかにしている。のみならず,近年来一部の学者は,古生物,古地質学,考古学の発見と研究から見て,中国の華北地方と日本は旧石器時代には密接な文化的つながりがあったとさえ考えている。
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6.豊富多彩な魏晋南北朝と隋唐文化
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漢代400余年の長期にわたる統一を経て,後漢王朝が瓦解したあと, 中国の歴史は「三国」「両晋」「南北朝」の動乱の時代に入った。その殆どの期間は幾つかの政権が割拠するという状態の下にあった.長い間互いに往来し命運を共にしたことにより,各族人民は漢族を主体として大融合を遂げ南方北方の経済と文化には一定の発展があった。従来経済文化の中心であった黄河流域は, この時代の初め, しばしば戦争による破壊に遭ったものの,北魏中期(5世紀後半)以後,回復と発展を見せ,引き続き優位にあった。中原を中心として,各地方は終始密接な関係を保っていた.このことが来るべき隋唐の大統一と封建経済文化の大繁栄のために条件を整えたのである.
魏晋南北朝時代は科学文化などの面で, まさに過去を継承し未来を切り拓いたと呼ぶにふさわしい重要な発展が多く見られ,内容も相当豊富である.哲学思想の面では,唯心論の玄学の興起・仏教の盛行として現われ,また同時に唯心論玄学と宗教迷信に反対する闘争も存在した。科学技術の面では,「灌鋼法」(鋳鉄に錬鉄を灌ぎ入れて炭素含有率を平均化して鋼を造る方法)と「焼き入れ」処理などの精煉技術が出現し,祖沖之(429-500年)のような大科学者が現われた.彼は数学・天文暦法・機械製造の分野で卓絶した貢献をし,世界で初めて円周率の値を3.1415926と31415927の間にまで算出し, 精確に小数点第7位まで計算した.また煉丹家(煉丹とは鉱物を熱して不老長寿の仙薬をつくる道家の術)葛洪(約284-364年)著の『抱朴子』は,数多くの重要な化学現象を記述している.農学者買思勰著の『斉民要術』10巻は各方面の農業生産の知識を含んでおり,秀れた農業科学の著作である。皇甫謐(215-282年)著の『針灸甲乙経』12巻は広く伝わっている中国伝統針灸学の重要文献である。このほか,三国の魏の時,馬鈞が試作に成功した「指南車」(絶えず南を指す仕掛けのある車),晋代杜預の造った「水磨」(水力で回す挽き臼),劉宣景の造った「牛転連磨」(牛の力で同時に幾つかの挽き臼を回す),北魏の時崔亮の造った「水碾」(水力で回すローラー式挽き臼),文献に見える「記里鼓車」(車輪の回転数によって距離を自動的に測る草.車の上の人形が1里ごとに太鼓を打つ)などは,何れもその時代の機械製造の高い水準を具現している。
文化芸術の面では,魏晋南北朝時代は漢族と各少数民族が文化上溶け合い,南北の交流があったために,外来文化の吸収に一層関心が向けられ,黄河流域の文化に豊富多彩な新しい内容が現出した。三国時代魏の「建安文学」(曹操父子をはじめ, そのもとに集まった詩人たちの文学),東晋の有名な詩人, 陶淵明(365-427年)の詩, 及び多くの楽府民歌は,漢代の楽府民歌のリアリズムの伝統を継承し,新しい時代精神と新しい文学風潮を具体的に表わしている。「天は蒼蒼,野は茫茫,風吹き草低れて牛羊見る」(斛律金「勅勤歌」)このような豪放明朗な民歌は,
広々とした北方草原の景色を見事に写し出しているとすれば,曹操の「亀は寿しと雖」詩の中の「老いたる驥は櫪に伏すも,志は千里に在り,烈き士は暮年ぬれど,壮んなる心は己まず」という名句は,作者個人の非凡な政治的抱負を表現しているばかりでなく,黄河子弟の粘り強い進取の精神をも表わしているといえる.有名な大画家顧愷之・王義之・王献之父子は書家の代表であるが,惜しむらくは彼らの今に残された作品はもはや非常に少ない.近年来,黄河流域で発見されたその時代の大量の民間絵画と書道芸術品は,画像塼・墓室壁画・漆画・墓誌銘などを含み,まさに当時の書画の作風を表現しており, 高い価値を有している.北魏・北斉・東魏墓出上の北朝時期の陶俑は芸術上の特徴と時代の風格を鮮明に持っている。
漢代にまだ道術の従属物に過ぎなかった仏教は,魏晋南北朝時代に至って大いに伸張した.仏教の盛行は一面で一つの新しい精神上の枷を人民にもたらしたが,他面,インド・ネパール・パキスタンや中央アジアの絵画・彫塑・音楽・無踊及び医学・音韻学・論理学に関する新知識をもたらし,残された多量の哲学論著・仏典・芸術遺産は当時の中国民族文化が大変豊富になったことを表わしている.仏教は功徳を修めることを頼みとする。現在中国に仏教石窟寺が120カ所以上あるが,その多くは南北朝時代から建てられたものである。うち黄河流域の著名な石窟は,甘粛の敦煌莫高窟・天水麦積山石窟・永靖炳霊寺石窟,寧夏の固原須弥山石窟, 山西の大同石窟。大原天龍山石窟, 河南の洛陽龍門石窟・鞏県石窟, 河北の南北響堂山石窟など.これらの石窟寺院を建造するために,人民は驚くべき代価を支払った。今日入々はこの独特の芸術の精華を大変大切にしており,それは中国と世界の仏教文化の貴重な遺産である.
581年, 隋の文帝楊堅が北周政権を奪取し,隋朝を建てた.589年に陳を滅ぼして,中国を再統一した。隋朝は37年間しか存続しなかったが,創造されたものが多く,政治・経済・文化のどの面でも橋渡し的な重要な時期であった.
隋代に開鑿された大運河は,南は余杭(浙江省)から,江都(江蘇省)・板渚(河南省)を経由し, 北は涿郡に至り, 全長2千キロ以上,銭塘江・長江・淮河・黄河・海河の5大水系につながり,南北交通運輸の大動脈となった。これは世界的な大工事の一つである。河北省趙県の汶水上にかかる趙州大石橋(安済橋ともいう)は,スパソ(大アーチの両支点間の距離)が37.37メートル,大アーチの両端の肩の部分に各2個ずつ小アーチがあいている。これは隋代民間の工匠,李春の設計したものである.1300年もの間,車輛の重圧・風雨の浸蝕・洪水・地震に耐えて今なお姿は変わっていない.それは世界で現存する最古の,オープン・スパソドレル・ア―チ型石橋であり,中国橋梁建築史上の誇りである。
陝西省西安の李静訓墓・河南省安陽の張盛墓から出上した豊富かつ豪華な副葬品,極めて高い工芸水準の金銀装身具,そろいの白磁黒彩文吏武官俑・紅陶彩絵侍婢俑・楽舞俑などは,見る人に経済文化が高度に繁栄した次の時代の到来を予感させるかのようである.
618年に唐朝が興り,907年に滅がまで290年を経た。
唐朝は長期間にわたる統一と安定を保った.唐の大宗李世民の治政の期間(626-649年),国の政治は公明正大で,経済は急成長し, 社会秩序は安定し, 民族関係は睦まじく,「貞観の治」の太平の世が現われた。最盛期の唐王朝は,東は大海に臨み,西はアラル海に達し,北はバイカル湖を越え,南は南海に及が空前の大版図を擁した.政府の押さえた戸口数は一番多い時で900余万戸,約5,200余万人に達した.当時唐朝は領域は広大,物資は豊富,人口が多く,盛んな文明を持った,世界の大帝国であった。
唐の首都長安は帝国の政治・経済・文化の中心であった。規模壮大な長安城は隋都大興城の基礎の上に拡張して成ったものである.文献記載と考古学実地調査発掘によると,城壁の全長35キロ,面積は83平方キロ.全城は宮城(皇居)・皇城(官庁区)・外郭城(住民,商工業区)の3大部分に分かれる。城東北にあったのは華麗な大明官宮で,宮内主殿の含元殿は見晴らしのよい高みにあって,対称的に高閣と回廊があった。ここは盛大な朝廷の会合が行われる場所である。外郭城内は南北に11条,東西に14条の,幅が広く真直ぐの大路によって,整然とした108坊(居住区)と東西両市(商業区力こ区切られていた。そびえ立つ建築群,碁盤割のような区画は封建身分制の厳しさと唐朝の富強がりをよく表わしている.長安城内では,高度に発達した手工業があり,繁昌する商取引が行われ,四通八達の交通網が敷かれ,百花繚乱の科学技術文化があった。四方八方から集まって来た少数民族もおり,遠くはるばる苦難の長旅をしてやって来た各国の使者・商人・留学生・宗教徒・芸人たちもおり,人口は100万を越えていた。当時世界最大の国際都市と呼がことができる。
中国の封建文化は唐代に成熟段階に至った。強大な政治状況と繁栄する経済という条件下で生まれた唐代文化は,伝統文化の継承発展と外来文化の幅広い吸収という点で,多くの領域で完成の域に到達していた。広く大きく,清新で,燦爛と輝く,民族色豊かな唐文化は,中国古代文化の頂点であり,世界文化史の上でも特別な地位を占めているのである。
手工業の発展につれて,唐代の手工芸技術は長足の進歩を遂げ,時代色鮮やかな多くの製品を造り出した。河南省陝県・陝西省西安などで出上した白磁は生地が硬く,釉色は清んで白く, 玉のように温かく艶がある.西安・洛陽など出上の大量の彩色陶器―一唐三彩は,造形が精美で,釉色はいろいろな色が入り交じり,技術がすこがる精巧である.西安何家村窖蔵の金銀器を代表とする唐代金属器物は,切削・研磨・象嵌・彫刻などの技術の面で極めて高い水準を見せている。あちこちから出上した唐代銅鏡は鋳造の質は高く,銅質が好く錫が多いから,色は銀のように白く,文様は自由奔放,伝統的な円形鏡のほかに,多種の花弁形の鏡が製作され,螺鍋象嵌・金銀平脱などの新技法も現われた。これらさまざまな手工芸品中の逸品は唐代手工業工人の高い智恵と熟練した技巧をあますところなく示している。
中国は印刷術を最初に発明した国である。9世紀,木版印刷術が普及した.印用1術の発明後,中国からしだいに世界に伝播した.印刷術の発明は世界文化に対する中国人民の, もう一つの偉大な貢献であった.
有名な科学者,張遂(―行和尚)は命を受けて改暦の仕事を行う過程で,黄道の座標を直接に測量できる黄道遊儀を造った。二十八宿(天球を28に区分したもの)の天球北極からの度数の実測を通して,恒星の位置が変動する現象を世界で初めて発見した,724年,彼の行っていた実測により,子午線の1度の長さを算出した。その数字は完全に正確とはいえないが, しかし子午線を測った世界初の実践であった.
中国伝統の医学中医と中薬学は当時すでに内科・外科・小児科・耳眼咽喉歯科などに分かれて治療することができ,針灸と接摩の医術は相当流行していた。大医学者,孫思遜は畢生の精力を尽くして『千金方』30巻,『千金翼方』30巻を著わし, 後人は彼のことを薬王と称した.659年唐朝公布の,蘇敬らが奉命して編んだ『唐本草』は,合わせて844種の薬物を記録しており, これは世界最初の国定公布の薬典である。 ―
唐の支配者は道教を提唱し,外来の宗教に対しても一律に受け入れた。中国と西方の交通が発展するにともなって,西の夜教(ゾロアスター教)・景教(キリスト教ネストリウス派)・マニ教・イスラム教が相次いで入ってきた.中国仏教はすでに当時異なる宗派に分かれ,主なものに,天台宗・法相宗・華厳宗。禅宗などがあった。629年,僧玄装は長安を出発して西へ旅し,今のアフガニスタン・パキスタン・ネパール・ベンガル・インドなどを訪間し,仏教経義を学び研究して,645年に長安に戻った.彼は仏典657部を持ち帰り,また旅の見聞に基づいて『大唐西域記』を書きあげた.玄装の西行は中国と南アジア諸国の文化交流に有益であった。
唐代の文学, とりわけ詩は中国文学史上大変重要な地位を占める。今日に伝えられているのは2,200余の詩人の5万首に近い詩である.唐詩は豊富な社会内容を反映する点で,また美しく完成された芸術スタイルの上で,前代を越える成果をあげ,人口に膾灸し,生命力に富んだ多くの詩篇を生んだ.盛唐期の李白・杜甫・白居易らはロマンチシズムとリアリズムの詩芸術を頂点に登らせ,唐体に並び屹立する偉大な詩人となった。
唐代,石彫・泥塑・陶塑などの秀れた彫塑芸術作品が多く残された。石窟造像・彩塑といい, 陵墓前の石彫,副葬の陶俑といい, どれもが雄健奔放・豊満美麗・意気軒昂の時代精神をはっきりと示している。敦煌莫高窟現存の480窟のうち,唐のものは213窟あるが,芸術水準は最上の部類に属する。洛陽龍門石窟の唐代造像,特に奉先寺舎那仏像墓を代表とする群像彫刻は気宇壮大で入念な彫顔である.主像廬舎那仏は高さ17.14メートルに達し,面容は豊満にして秀麗,両の目は静かで慈愛にあふれている。その両脇の迦葉は厳粛で重々しく,阿難は温順敬虔,菩薩は端正で慎しみ深く,天王は眉をよせて目を怒らせ,力士は雄々しく勇ましい.群像の配置・形象の塑造・表情の彫りなど,みな形も精神も兼ね備わった効果をあげており,唐代彫塑芸術の高い完成度をよく示している.
唐三彩は陶塑芸術の代表である.造形は本物に似て,色彩は艶やか, 人物の姿態は真に迫り, 駱駝・駿馬は生けるが如く,内外にその名を馳せた美術品である.
唐代の絵画はリアリズム精神に大変富む.画家は唐朝の大きな功業と社会の様相を充分に表現し,その作品の風格はあるものは「満壁風動き」,あるものは「燦爛として備わるを求め」,極めて高い水準に達した.壁画は唐代絵画芸術中の重要な一部分であり,またそのうち墓室の壁画が多くを占める.近年発見された多くの唐代墓室壁画のうち,主なものは李寿墓・鄭仁泰墓・阿史那墓・章懐太子墓・懿徳太子墓・永泰公主墓などで, これらの墓室壁画は数量・描かれた内容ともに非常に豊富である.章懐太子墓と懿徳太子墓の完全な壁画だけでも, これを合わせると700余平方メートルの面積に及ぶ。これら墓室壁画は古代中国の地下画廊となっている.
絵画芸術と肩を並べるのが書道芸術である.伝統の篆書・隷書・草書・行書のほかに,楷書も円熟した。欧陽詢・褚遂良・顔真卿・柳公権・張旭・懐素など多くの有名な大書家が生まれた.多くの墓誌銘は民間の書家の作であるが,同様にすばらしい芸術水準を示している.
唐代は古代中国の対外文化交流の盛んな時代であった.アジア・ヨーロッパ・アフリカの諸国と経済文化の往来があり,中外関係史の上にひときわ輝かしい1ページを書き残した。漢代に拓かれたシルク・ロードは中外文化交流において,ますます重要な役害」を果たし,「文化の運河」と譬えられた。シルク・ロードは,中国人民と各国人民の平和往来の足跡を残し,中国文明と世界文明の発展に不滅の貢献をしたのである,
唐代, 中日両国の友好往来は新たな段階に至った。唐朝,少なからずの使者・僧侶・商人・工匠が日本に行ったが,その中で最も有名なのは鑑真和尚で,彼は6度も海を渡ってようやく日本に着き,中日両国の文化交流に貢献した.日本の朝廷が組織した大型の遣唐使の到来は,前後19回あり, 1回に数百人の多きに達した。随行する者に工匠・商人・学問僧・留学生などもたくさんいた。彼らは長期間,なかには終生中国に留まり,中国人民と厚い友誼を結び,中日文化交流と善隣関係に貢献した。鑑真と阿倍仲麻呂の名は中日人民の友好のシンボルである.1970年映西省西安出上の日本の銀貨「和同開弥」,1972年日本奈良県高松塚出土の見事な壁画と海獣葡萄鏡,奈良の正倉院秘蔵の唐代渡来の宝物群は,いずれも中日文化交流の証拠である.黄河の水は日本に通じ,中日両国は一衣帯水の友好の隣邦である.
唐以後,政治の重心がしだいに移ったこと,また南方の経済が急速に発展したことにともなって,中原の中心的地位はしだいに変化を来した。しかしながら総じていえば,黄河文明は依然として向上発展した.中国古代「四大発明」
中の三大発明一―火薬・活字印刷・羅針盤(四大発明のもう一つは紙)が宋元時代に生まれたり,新しい発展を見せたりしたことがその証明である.
ここまで書き終えて,われわれは,断片的な文献の引用と限度ある数組の文物を通して,黄河文明の全体を説こうとすることは徒労であることに気がついた。なぜならば,中国古代文明の象徴としての黄河文明は,比べるものがないほど内容豊かだからである。ここでは,黄河文明を世界のほかの文明と比較をして,古代世界の文明における黄河文明の地位を明らかにすることもしなかった.黄河文明は先祖たちが長い長い歳月の中で,不院不屈の精神で血と汗,智恵と労働でもって創造してきたものである.われわれは, このことだけを明らかにしたかったのである。他の諸民族と同様,中華民族は自らの優秀な資質と伝統を有している.かつて歴史上に自らの智恵と力をもって人類の進歩のために相応の貢献を果たしてきた。「四大発明」の如きは中華民族が世界文化の宝庫に献納した珍宝である.
歴史を通観すると,各民族はそれぞれ各自の発展のコースをたどっている.黄河文明は,黄河流域に独立し発達してきた偉大な文明である.同時に人類社会の進歩,世界各国各民族の文明の発展は,各々異種文化の相互の影響に依存する。世界各国人民の間の友好往来と経済文化交流は,人類社会発展を促す重要な要素である.黄河文明の果実は外国の人民との友好往来と文化の交流を通して世界に種まかれ,同時に他の多くの長所を広く採り入れ,戒めとする中で外来文化の栄養を摂取して, 自己を一層充実させていったのである.
黄河は東流して去り,文化は世を済って長し.黄河の誇るに足るあの過去は美しい未来を建設する巨大な力となるであろう。
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